アイヒマン実験という有名な心理学実験についての本。
テレビで紹介されたこともあるので、知ってる人は多いと思う。
どんな実験?
一般の人に「学習と罰の関係を調べる実験です」と言って協力してもらう。一人は先生役、一人は生徒役に。
生徒が回答を間違えたら、先生は罰として電撃のスイッチを押さないといけない。
しかも、実験者から「間違えるたびに電撃をどんどん強くしてください」と言われる。
生徒は実は協力者で、電撃が強くなると悲鳴をあげたり、痛がっている演技をする。
さて、先生はどこまで電撃を強くするだろうか?
どの時点で実験者(権威)に逆らって、実験をやめるのだろう?
(※先生が罰をためらったり助言を求めた場合は、
実験者が「続けて下さい」とうながし、
それを4回言っても「やめたい」と言う場合、実験中止)
結果
「人が痛がってたら、無理してまでやらないだろう」という予想が多かったが、結果は40人中25人(62.5%)が最大の電撃を与えた。p54
時に人々は嫌悪感を示し、強く緊張しながらも実験を続けた。
なぜ実験者に反抗できなかったのか、一体何が人々を縛っているのか。
服従の下地
その後も条件を色々変えて実験し、結果を元に服従の心理について考察していくのがこの本の内容。
話をまとめろ、というと訳者あとがきで山形さんがスパッと書いてくれてるので、
そこ読みましょーと思ったりしないでもない。
中学の頃からこの方の文章好きで読んでるけど、相変わらず面白い。
というか大好き。かなり影響を受けている。
下の引用にも書いたけれど、
「服従する」という行動は社会を円滑に進めるために必要なことのひとつで、
誰もがもっている。
会社の上司や学校の先生の指示に従う、というのはすぐに思いつくが、例えば遊園地。
ジェットコースターに乗ろうと思ったら、係の人に誘導されるまま席につく。
そんなことでさえ、実は自分のコントロールを委ねる機会なんだなーと思ってハッとした。
状況次第では私も、これを読んでる人も、
指示されるまま痛がる人に電撃を加え続ける人間になるかも……しれないのだ。
「アイヒマン実験」
アイヒマンはじめ多くの戦争犯罪を実行したナチス戦犯たちは、そもそも特殊な人物であったのか? それとも、家族の誕生日に花束を贈るような平凡な愛情を持つ普通の市民であっても、一定の条件下では、誰でもあのような残虐行為を犯すものなのか?……という疑問を検証する目的で行われた実験なので、そう呼ぶらしい。
結果、「誰もが残虐行為を犯す可能性がある」という話になったので、批判も相当浴びたようだ。
他人を傷つけちゃいけない、と個人ではわかっているのに、
組織の中に組み込まれると指示の通りに動き、人間性が失われてしまう。
ってことは、上から命令する人・組織次第でなんでもやっちゃうってこと?危なくね?ってなるんだけど、そのへんのフォローというか、社会もうまくできてるんすよー的な事が訳者あとがき「蛇足 服従実験批判」に書かれていて、そちらもなるほどだった。
11〜12章の人間が緊張を回避する方法等もかなり興味深い。
引用・メモ
/は中略。p7
アブラハムと子イサク
子を生贄に求め信仰心を量る神の話
p8
服従の本質というのは、人が自分を別の人間の願望実行の道具として考えるようになり、したがって自分の行動に責任をとらなくていいと考えるようになる点にある。先日友人と近況を話す機会があって、
その中で「なんでも承認をとってからじゃないと行動に移さない人」という話題が出た。
不安がりだから後押しが欲しいんだろうという話をしたが、
この本の内容に照らすと、人は命令に従うことで主体性をなくし、道具として動くようになる。
つまり、大事があっても責任転嫁することができる。
そういう意味合いも含まれているのかもしれない、と思い当たった。
実際どうなのかはわからないけれど、
責任をとりたくないから自ら進んで命令を受けに来る、という逆の行動自体は興味深い。
p10
アーサー・ケストラー『機械の中の幽霊』
p18
「最高レベルの電撃を与え続けた人たちが一般の人とは考えられない。サディストなんじゃないの?」
「いやいや、一般の人だから」
「私が同じ状況になったら絶対途中でやめるね」
「それはどうかな」
という話。
被験者たちも嬉々としてやったわけではなく、
嫌がり、やめた方がいいと訴え、不服を表明し、だがそれでも続けてしまった。
→ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン』1963
p23
被害者を害する行動に先立って、その被害者を著しく貶めるという行為だ。/被害者の系統的な価値低下は、被害者の残酷な扱いに対する心理的な正当化手段を提供する/。
p24
分業化によって虐待が容易になる。
司令は書類にサインをするだけ、実行者は命令に基づいて、という正当化手段を与えられる。
p49, 271
しばしば人の行動を決めるのは、その人がどういう人物かということではなく、/どういう状況に置かれるかということ/。
■11、12章は全体的に面白い。
p186
ある状況下ではコントロールを行う人物(権威)がいるものだ、という共通の期待がある。
別にその人が名声、高い地位をもっている必要はない。
たとえば劇場のの案内係。
言われてみるとなるほどなー。
「そういうものだから」それにおとなしく従う → 円滑に物事が進む。
「そういうものだから」が社会の規範。
p202
ルール侵犯と不安。
p208
大砲を町に撃ち込んで1万人殺すほうが、1人を石で殴り殺すよりも邪悪だが、心理的には後者のほうが行動としてずっとむずかしい。クッションがあると行動しやすくなる。
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