2015-08-24

『謎の蔵書票』ロス・キング ★3

謎の蔵書票

本をめぐるミステリーという内容に興味をひかれて、10年前くらいに読んだ本。
当時は蔵書票のことをよく知らなくて、小学校の図書室の本に挟んであった貸し出しカードみたいなものかと思っていた。
退屈な部分もあり、面白く読めた部分もあり。
三十年戦争や蔵書の歴史を軸に話が進むのでそちらに関心がある方にもいいかも。

舞台は王政復古後のロンドン。
王につくか革命派につくかで命運が別れ、荒廃した館が印象的だった。
いま清教徒革命に関心があるので、読み直したら色んな発見があるかもしれない。

また、数年後に季刊『銀花』で蔵書票の紹介を読み、「なるほどこれが蔵書票か!」と把握。
色んなデザインやインク、紙質があってとても興味深かった。
こちらはこちらでまた深い世界なんだろうなあ。


この本が好きな方には以下もおすすめ。


ジョン・ダニング 『死の蔵書』
これはほんとにミステリって感じで読める。
死の蔵書 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

マシュー・バトルズ 『図書館の興亡』
図書館の歴史。
図書館の興亡―古代アレクサンドリアから現代まで

ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』
中世ヨーロッパのカトリック修道院を舞台にしたミステリ。
ミステリであり膨大な知の詰まった文学。
薔薇の名前〈上〉

2015-08-20

『アウル・クリーク橋でのできごと』ビアス ★3


こちらで読んだ:ghostbuster's book web.


※以下ネタバレあり。




感想

走馬灯、というにはあまりに圧倒的で、壮大。
クローズアップして描かれる自然や人物たち、感触や香りの描写。
ファーカーはまさにそこで生きている。

読みおわってすぐは、もう一度読みなおして、現実ではどうなっているかを想像したりもしたのだが(睡眠時、外の音が夢の内容に影響するというのを思い出した)、そういう仕掛けだけを目的に読むものではない気がした。

その一瞬にこれだけ壮大なものが詰まっているということに、意味があるような気がする。
死が見せる圧倒的な夢と、あまりにあっけない現実の一瞬。

2015-08-19

『月明かりの道』ビアス ★3

こちらで読んだ:ghostbuster's book web.


芥川龍之介『藪の中』に影響を与えた作品のひとつということで読んでみた。
ある屋敷で起きた殺人事件について、3者3様の視点で描く。


まずは息子が語る、事件のあらまし。
母親が寝室で殺され、父親が憂鬱に取り憑かれてしまったこと。
その後、夜道を歩いていた時に、父親が何かを見て驚愕し、そして姿を消したこと。

次に、囚人のように日々悔恨のうちに暮らす男の語り。
ネタバレ:彼はかつての父親で、妻を絞殺したこと、月明かりの道で死んだはずの妻を見、恐怖に慄いて生活を捨てたことを告白する。

最後に、霊媒師によって呼び出された被害者本人。
この世界の孤独を嘆き、ある夜の出来事を語る。


普通の生者3人にしないところが面白い。
最初に家から出てきた男は誰だったのか?という謎は残るものの、3人の語りを合わせて事件の全容を理解させ、理解させる事で皮肉と悲哀を引き出す、というつくりだから、そこは『藪の中』と趣旨が全く違う。


2章の男の言葉は遺書だ。
そして3章で母親は
「まもなく息子も見えない者の世界に移ってくるでしょう」
「そうしてわたしは永遠に会えなくなってしまうのでしょう」
と言うから、語り手3人とも、孤独のまま終わってしまうのだろうなあ。

2015-08-11

『平行植物』レオーニ ★3

平行植物 (ちくま文庫)

あの有名な『スイミー』の作家さん。

まず前置きからして、専門的かつ深遠なことを言っているようで、まるで中身がないからすごい。
皮肉じゃない。褒めてる。
というか、それがこの本の素晴らしい所なのだ。

扱うのが実体がない「平行植物」ゆえに、前置きもそれに倣ってるのだろうか。

例えばこんな感じ:
(羊を生んだ植物の例)
あるいはまた、正真正銘の科学的実験の時代が始まろうとしていた17世紀に、クロード・デュレも動物を生んだ木について語っている、というふたつの事実を考えあわせてみれば、自然界のいかなる既知の法則にも拘束されない植物が発見されたことによって、必ずしも客観的正確さをもってそれらの新しい植物の本質を扱わない記述が現れたとしても不思議ではない

簡単に言うと「この本は空想の植物について書いてるから、主観的だし想像を大いに羽ばたかせてるけど、その辺よろしくー」ということらしいが、周りくどさ半端なくてこんなん笑っちゃうよ。

植物の分類の話かと思ったら碁の対局に通信料がいくらかかったとか、地層の発見話に、怪しげな透視術を使う巫女がどうのこうのとか、ふざけた話が当然のようにまぎれこんでるのも面白い。


興味を引いたのは「中身」をふたつ持つという、カラツボ(絵)
煙突みたいな形で、カラツボの中身は空洞になっている。
そして、その空洞はまわりの空間とつながっている。
空間がカラツボの身を包んでいるから、カラツボの身もまた「中身」なのだ。
中身が中身を包んでいる。
(という風に読み取った。間違ってるかもしれない)


むかし荒俣宏『理科系の文化誌』、サン=テグジュペリ『人間の土地』、手塚治虫『三つ目がとおる』のボルボックなどから影響を受けて、生き方が人や動物と全く違う「植物」というものを私はある種のエイリアンだと思っているのだが、カラパイアを読んでると「やはり……」と感じてしまう。


実体のある植物でもこれだけのヘンテコさを備えているので、「平行植物」にはより大きなヘンテコさと、壮大さと、もっともらしさを望んでしまうのも正直な気持ちだ。
願わくば、「平行植物」と「非平行植物」の境界がより曖昧で、面白い世界にならんことを!

2015-08-08

『藪の中』芥川龍之介 ★5

藪の中

あらすじ

藪の中で男の死体が発見される。
捕らえられた盗人は殺しを自供、事件が明らかにされてゆく。
ところが現場から逃げた男の妻、そして殺されて幽霊となった男、2人もまた自分が殺した(自殺した)と語り、一転、事件は混沌の中に。
真相はいまだ解かれていないという。 >Wikipedia



感想

ミステリーじゃんかーー!
食い違う3人の証言、誰の話をどう信じるかによって事件が変わっていくので、犯人がわからないらしい。「真相は藪の中」という言い方もこの作品が元ネタだとか。
すごい影響だ。

私も好奇心から真相解明に取り組んでみたが、納得いく説ができず諦めた。
「こうだとしたら……いや、こうも考えられる」と派生が次々出てくるので何も確定しない。

いくつか真相解明サイトも見たが、別の可能性を無視している、嘘かもしれない話を断定していて、やっぱり納得するまでいかなかった。
結局はたくさんの「こうかもしれない」「ああかもしれない」の中で、「どれが自分にとって信じやすいか」という話に落ち着いてしまう。
よくここまで錯綜するような物語が書けるなあと、逆に感心してしまった。


誰を信じるとどう見える

そんな中で面白かったのが、和田敦彦「『藪の中』論の方法」(PDF)
読む中でどんなバイアス(偏り)がかかるのか、話し方の変化など、すごく勉強になった。
ためしに私も3人それぞれを信じきって読んだら、人物の印象がこんな風に変化した。


A. 盗人を信じた場合
盗人:
襲った女に心奪われ、夫と正々堂々決闘するも、女に逃げられる。
彼が太刀で縄を切れば一筋にならない、という意見を見たが、一本だけ束から離れて切りやすい縛り方になってたかもしらんし、女がなびいてるとあって、ちょいと切込みを入れて「あとは自力で解け」なんて偉ぶった態度を取ったのかもしれない。

女:
「どちらか死んで」と言って夫を助けなかった事を懺悔している。
この言葉は本心かもしれないし、決闘させれば夫が勝つと思ったのかもしれない。
が、怖かったのか途中で逃げてしまい、事が終わった後戻ると(馬が残っていたのでたぶん近くに隠れてた)夫は死んでいる。
自責の念から「自分が殺した」と語る。
しかし、その割には「夫は私を蔑んだ」と同情を引き、「殺しても仕方がなかった」説に持ち込むのだった。寺なら死刑にもならんだろうし、懺悔ごっこで罪悪感から解放されたいだけかも。

夫:
「どちらか死んで」と自分を裏切った妻に激怒する男。
その怒り、恨みで事実をねじ曲げ妻を悪女に仕立てる。
自害としたのは、盗人風情に、あるいは腕に覚えがあっただけに、敗れて恥と感じたか、または悲しみに沈む自分に同情を集めようとしたのか。


B. 女を信じた場合
女:
盗人に強姦され夫からは軽蔑され、恥を見られた為に彼を殺さねばならなかった、哀れな女。

盗人:
言うことがいちいち芝居がかっている。
強姦したあげく、自分の見栄のために平気で嘘をつく。
「いやあ、俺はさっさとズラかりたかったけど、女にこう言われちゃさ~」
罪をかぶったのは、盗人の自分に向くであろう疑いを潔く肯定した上で「決闘だった」と主張し、死刑を免れるためか。
夫が死んだこと、縄が切れた位置など知っていたのは放免か誰かから聞いたか、現場に戻ったか。

夫:
強姦された妻を軽蔑。
屈辱を味わい、「殺せ」と言い放って死を選んだ。
その恨み激しく、女を悪女に仕立て上げる。
つい迸ったものかもしれないが、盗人を許すという言葉が出るほど。
あるいは罪の追求を妻に絞りたかったのかもしれない。
自害としたのは、妻に罪は着せまいと最後の思いやりが顔を出したのか(でもそれだったら誰か小刀抜いたって言わなくていいか)、それとも妻が許しを請うような機会さえ与えたくなかったか。


C. 夫を信じた場合
夫:
盗人に心変わりした妻に死を望まれ、屈辱と悲哀のうちに自害。

盗人:
「B. 盗人」の印象とだいたい一緒。
妻の言った「夫を殺して」には引いたはずだが、彼女に好意的な話をするのは、執心していた時の名残か。
または自分の創作話に大いに酔うため、事実を無視したか。

妻:
「A. 女」と近い。
ただし言葉は「夫を殺して」、完全に盗人に乗り換えている。
自己保身からか、隠し事が多すぎる。
もし小刀を抜いたのが彼女なら、自殺をしようと考えたのか、そのフリをしようとしたか、盗人に罪をなすりつけるためか、または消極的な形で夫を殺したかったのかもしれない(下記参照)。

とりあえず陳述をまるっと信じてどう感じたか、を書いてみたが、話の一部を嘘だと思う、、勘違いがあると思う、3人とも嘘をついてると思う、3人とも語ってない出来事があると思う、といったパターンではまた印象が変わるんだろう。


夫を殺したい

論の中にはほかにも、妻が罪をかぶった理由に
「夫を裏切った自分を悔やんで、自分を消してしまいたいと考える」
→「夫を消せば、彼の中の“裏切った自分”も消えるだろう」
→「創作話の中で夫を殺す」
というものがあり、興味深かった。(五、参照)

この心理、この作品にも出てくる「恥を見た人が生きていてもらっては困る」に似ている。

もうひとつ面白かった論文、渡辺義愛「『藪の中』の比較文学的考察」(PDF)には、『藪の中』に影響を与えた海外作品について論じているが、そのひとつ『ポンチュー伯の娘』(PDF)にこういう話がある。

(夫のチボー、盗賊と戦うが数に負け、縛られる。妻が犯された後……)
「奥よ、どうか私の縛めを解いてもらいたい。棘がひどく痛いから。」
地面にころがっている剣が奥方の目に入ったが、それは殺された賊のものであった。
それをつかみ、チボー殿の所に行って言った、「殿様、自由にして差し上げますことに。」
彼女は相手の胴体を突き刺そうと思った。
だが彼は切先が自分に向って迫るのを見てそれを恐れ、腕と背が捩れるように、懸命に身を逸らせた。彼女は打ち掛ったが、相手の腕を掠り、革帯を断ち切ったのだった。
彼は今や両手が自由になったのを感じ、体を這わせて縛めを解いた。
両足で立ち上って言った、「奥、もうお前には殺されまいぞ。」
彼女も言った。「いかにも殿様、それが口惜しうございます。」

『藪の中』夫の話のように、妻が殺そうとするのだ。
論文によると、このシーンも解釈がいろいろあるそうだが、大方の見方は

夫が生き残ることによって、絶えず屈辱が思い出されるであろうから、生証人を抹殺してしまおう p30

らしい。
『藪の中』の恥を見られた女の心理とはちょっと違うかなあ。
思い出すから殺すんじゃなく、恥自体を即消去したいというか。
男たちの記憶が消せれば一番いいのだろうが、ないゆえ殺さなければならない。
(もしくは自分が死ぬか)

さらには、こういった解釈もあるという。

(この民間説話の背景となる)原初的な社会では、妻はたとえ暴力で犯された場合も、穢れについて責任を問われた。この物語のみなもとにあるのは、(略)懲罰、あるいはすくなくともこうむりうる軽蔑を未然に防ごうとする気持であろう。 p31

これを読んでからだと、妻・真砂まさごの懺悔がまた違った風に感じられる。
夫に軽蔑された話が大部分を占めていたけど、なによりもそれを恐れていたせいだったのかな。
夫が軽蔑してなくても、そう思い込んだかもしれない。
または軽蔑を恐れて「どちらか死んで!」「夫を殺して!」と口走ったなら、そのせいで夫の怒りを買うことになったのだから、なんとも……皮肉な話である。



関連



2015-08-05

『不思議な島』芥川龍之介 ★3

青空文庫

ガリヴァー旅行記が登場するので風刺作品なんだろうなあ。
『沼地』と似てる。

  • サッサンラップ島(SUSSANRAP)
    逆から読んでパルナッソス
    文芸の発祥地とされる。
  • バッブラッブベエダ(BABRABBADA)
    よくわからぬ。
    アブラカダブラと聖典ベーダを合わせたような。
  • 野菜=本
  • 片輪=評論家
    片輪は野菜が作れない(評論家は本が書けない)。
    何もわかってないやつが本の良し悪しを決める、という皮肉か。
    感覚が不自由になればなるほどArbiter elegantiarum(通人)になるという。
    本について感じたことが世間一般とかけ離れるほど、「人と違う捉え方」ってことで評論家としては評判になる。そのためにわざわざ感覚を歪ませる者もいる、と滑稽さを笑っている?
  • Arbiter elegantiarum
    Weblio辞典 judge of elegance
    ネロの側近ペトロニウスについての「典雅の審判者」という記述が元らしい。
  • 大学の講義
    古めかしく今についてきていない、ということか。
  • カメレオン
    カメレオンというと色変わり……ころころ変わる流行、世相のことか?
    信託を聞いてから=市場で何が売れるか動向を見てから、という意味だろうか。

日の出温泉と嘉例川駅

日の出温泉 きのこの里

家族で温泉行った!空港の近くにあるところ。 nifty温泉




▼自撮りするとも思わず
ヨレヨレのTシャツを着ていますがわたくしです。
暑かった~。

川沿いの温泉で、開放感あり。
窓が大きいので内湯からも緑が見えた。

お湯は鉄のようなニオイで、「ぬる湯」「あつ湯」に分かれている。
ミネラルがたっぷり入ってそうな濁り湯。
露天はウッドデッキが敷かれていて、そこにベンチとバスタブの水風呂がデン!と嵌まり、ちょっと面白い。

200円で入れるせいか、地元の人や通りがかりの人などひっきりなしだった。
小さい温泉なのですぐに満杯になる。

休憩室はひとり400円。
しばらく寝たり、お菓子食べたり、のんびり過ごすにはとても良いところだった。




嘉例川駅

その後、明治36年開業当初の木造駅舎が残ってるという、嘉例川かれいがわ駅に寄り道。
レトロなものが好きなので行ってみたのだが、人っ子一人いなくて結構怖かった……!
SIRENに出てきそうな感じで。

▲母がちらり。






駅舎内で配布されていたプリント。スタンプも押してきた!



2015-08-04

『十円札』芥川龍之介 ★5


いい話だなあ。

金欠の主人公は、尊敬する人、粟野あわのさんからお金を借りることになった。
だけど、彼の信用を失いたくない、自分の威厳を守りたい。
そのためには、十円札をとっておいて、早く返すのが一番だ。
街には誘惑が待っているが、主人公は使わずにいられるだろうか……という話。

借りないとせっかくの好意を無下にしてしまう。
返さないと相手の信用が落ちてしまう。
形に現れないもののやりとりを、お金を介してやっている。
『贈与論』を身近な物語として見ているようだった。

後半十円札をしげしげと見、それは細やかな印刷の入った紙、美術的に見れば額に入れてもいいかも――、ものを多角的に見せるのも面白い。
楽書らくがきをする紙、信用の媒介をする紙、窮乏の悩みの種、もしかしたら悲劇を起こした事もあるかもしれない、と。

読後感も爽やかで、素晴らしい作品だった。

芥川さんの作品は、『地獄変』『羅生門』といった陰のものより、こういう愛嬌が見えるものの方が好きみたいだ。


メモ

  • ヤスケニシヨウカ → 弥助にしようか
    弥助=寿司のことだそうだ。語源由来辞典

『眼球譚 太陽肛門/供犠/松毬の眼』バタイユ ★3

眼球譚 太陽肛門/供犠/松毬の眼 (ジョルジュ・バタイユ著作集)

2011/06/28

巷で「エログロ小説」と言われていて気になっていた本書。
どれだけ眼に憑かれているかを語る、フェチズム的な本なのかな?と思いながら読んだ。
以下twitterより。



p60まで読んだ。
もっと耽美な、もしくは濃厚なエロシーンが羅列してあるかと思えばそうでもない。
自慰の見せ合いや精液、尿のかけっこ。
オーガズムのない遊びがずっと続く感覚。
グロもまだ無いが、「卵を落す」が「目玉を落す」になったのが予兆かも。
しかし小便は臭いし、後始末が大変そうだ。



読み終わった。
エログロというより冒涜小説の印象。
この小説が書かれた時代、キリスト教の倫理観が今よりはまだ生きていた時代には、まさにエログロだったのかもしれない。
目玉をくり抜いたあと、まさか眼窩姦を…?と思ったがそれは無かった(なんとなくなりそうな気がした)。
シモーヌは穴より目玉に憑かれていたので、眼窩には興味がないのかな。


闘牛の描写:
白色や、バラや、薄ねずみ色の、穢らわしい色彩の臓物の束を足の間から漏らすとき。張り裂けた膀胱が突如、砂の上に馬の小便の水溜りをぶちまけるとき…
について、張り裂けぶちまけられるのは臓物じゃないのか、と意外に思う。
散々小便について描いてきて、ここにきてもまた尿なのだ。
飛び散る血のイメージを省略して、この激しさを小便に託すというのは、いかに小便に対して強迫観念があるかというか…、小便じゃないとだめなんだろうなあ。


私は見たのだ、シモーヌの毛むくじゃらの陰門の中に、マルセルの薄青色の眼が小便の涙を垂らしながら私を見つめているのを
のラストには脱帽。
これはシモーヌがくり抜かれた聖職者の目玉を自分の中に入れてしまうという描写だが、フロイトやシンボルについての記事で読んだ女性の陰門への恐怖、「あそこはなんでも飲み込むブラックホール」というのが頭に浮かんだ。
こっちは飲み込むんじゃなく、見つめるアソコである。
しかも小便の涙を流して!
うーん、半端ない。

最後の章「回想」で、なぜこういうものを書くに至ったかの経緯説明があるのだけど、むしろこの章を主人公とシモーヌの背景として描かなかったのはなぜなんだろうか。
物語描写から離れたところで書く事が必要だったのか?
本編を、作者の白昼夢のようなものとして書きたかったのかなあ。
この章はまだ途中までしか読んでない。


リンク



2015-08-03

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『芋粥』芥川龍之介 ★5


あらすじ

主人公「五位」は取るに足らない存在である。
上からも下からも存在を軽んじられ無視され、バカにされ笑われ、だがそれをくつがえす意気地もなく、ただ耐えている。
そんな彼の支えになっていたのは「いつか芋粥を飽きる程食べたい」という欲望であった。

ところが、ひょんな事から願いが叶うことに。
藤原利仁が、「芋粥に飽きたことがない?」とやはり嘲笑含みに、たんまり食べさせることを約束したのだ。

利仁は、五位を京都から敦賀まで連れだす。
長い距離を乗り切ったあと、館にて芋粥の席が設けられることになった。

だが器いっぱいの芋粥を前に、五位は食欲をなくしてしまう。
彼は以前の哀れな自分を思い出し、だが欲望を一心にもつ幸せ者だった、と振り返るのだった。



感想

景色の描写が味わい深く、とても美しかった。
これだけで読んで良かったと思う。

また、五位のなんとも言えないキャラクター。
みすぼらしく惨めだが、それがいじらしい。同情をひくというか、庇いたくなるというか。
ふつうおどおどしてばかりのキャラには反感を抱きそうなものだが、五位に対して愛着がわくのは、表現の力なんだろうなあ。

結末については、自分なりの考えがあったのだけど、ほかのレビュー(広岡威吹の作家ブログ)にも納得。
「欲望から解放された希望ある終わり」と「欲望を失い惨めな一生」、真逆の結末が生まれる。
まず私の解釈から書いてみる。



夢が叶っても嬉しくない

夢を支えに辛い仕打ちに耐えてきたのに、それがひょいっと叶ったら、じゃあいままで耐えてきた自分はなんだったのかと。

折角今まで、何年となく、辛抱して待つてゐたのが、如何にも、無駄な骨折のやうに、見えてしまふ。出来る事なら、突然何か故障が起つて一旦、芋粥が飲めなくなつてから、又、その故障がなくなつて、今度は、やつとこれにありつけると云ふやうな、そんな手続きに、万事を運ばせたい。

自分の力で叶えていない事も大きいのだと思う。
が、そもそも叶えようと動いていたかというと、そんなことはない。
私には、この欲望は「叶えるためのもの」じゃなくて、「現状に耐えるためのもの」に思える。

夢が必要なくなった?

気になったのは、狐のエピソードに続くこの部分。

自分と利仁との間に、どれ程の懸隔があるか、そんな事は、考へる暇がない。唯、利仁の意志に、支配される範囲が広いだけに、その意志の中に包容される自分の意志も、それだけ自由が利くやうになつた事を、心強く感じるだけである。

まず、利仁の支配地域に入ったという環境の変化。
狐(自然)も恐れをなすほど、ここでの彼は「王」である。

それにつられて五位は、王の意思内という制限つきで、「自由がきくようになった」と感じている。
辛抱に辛抱を続けてきた今までの人生からすれば、これは大きな変化だ。
(そのあと、阿諛あゆ…おべっかはこのような時自然にわくものだから、今後五位がそうしても、読者はみだりに勘ぐるべきではない、と注記がつくのも、「変化した」事を補強するように思う)

さっき「現状に耐えるための欲望」と書いたが、それなら「自由がきくようになった」ことで、耐えるだけでなく、能動的に動く選択肢も増えたのではないか。
耐え続ける必要がなくなるのなら、欲望は、その役目を果たし終えたといえないか。

耐えるための夢

そんな風に考えるのは、最後に出てくる五位が、不幸せには見えないからだ。
彼は満足感も得られなかったし、欲望も失ったが、どこかさっぱりとして感じられる。

「芋粥を飽きるほど食べたい」という願いは、辛い現状を耐え続けるために必要なもの。
だが逆にいえば、「叶うまで耐え続けなければならない」。
現状に縛りつけるものでもあったのではないか。
五位なんて自ら叶えようと動いていたわけでもないのだから、なおさらだ。

彼は欲望を失ったけれども、その枷から解き放たれたとも思えるのだった。



別解: 残酷な終わり

というわけで、五位に変化が起きたと仮定して、欲望の役割と合わせて考えた↑の解釈。
私は五位に未来が生まれたと感じたのだが……

彼は、この上芋粥を飲まずにすむと云ふ安心とともに、

最後に五位は、「欲望を満たさずに済んで、ほっとした」のがわかる。
できることなら欲望を持ち続けたいと望んでいたのだ。
そして前半のこの部分。

人間は、時として、充たされるか充たされないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまふ。その愚を哂わらふ者は、畢竟ひっきょう、人生に対する路傍の人に過ぎない。

「欲望に一生を捧げる人の話である」ということ。
じゃあ解放されたという解釈は埒外で、やっぱり一生変わらなかったのかな……。
支えの欲望を失い、しかし耐え続ける選択しかしないのなら、五位はこれから先どうやって生きていくのか。

正直、がっかりしてしまった。
五位にじゃない、人生の残酷さに。



さらに別解: 狐の示す道


「狐も、芋粥が欲しさに、見参したさうな。男ども、しやつにも、 物を食はせてつかはせ。」 利仁の命令は、 言下ごんかに行はれた。軒からとび下りた狐は、直に広庭で芋粥の馳走に、 与あづかつたのである。

「芋粥なんてこんな狐でもありつけるのだ」
五位に欲望のちっぽけさを意識づける部分。

これが以前を振り返る場面に係り、「欲望の大小なんて意識もせず、ただ一心に欲していたあの頃は本当に幸せだった」となる。

しかし、ダメ押しで五位にショックを与えてないか?
最後にこれって結構ひどくない?

その割に、くしゃみをする五位からは悲壮感を感じないというか。

もしかしたら、もうどうでも良くなる、吹っ切れた、そういう心理が働いたのかもしれない。
ここでまた「欲望からの解放」の登場である。解放させたがりで申し訳ないが。



もう一度、ここまでの心理を簡単に考えてみる:
芋粥を飽きるまで食いたい!敦賀まで思わぬ遠出となったがいよいよ叶うぞ!あれ、こんな簡単に叶っていいのか?一生をかけた魂の願いだぞ?もっと苦労や挫折をして、やっとこさ叶うってならまだしも……不安うずまく中、意に反して恐るべき量の芋と人員が用意され支度は整っていく、嫌だ、食べたくない、簡単に願いを失うなんて嫌だ、ああわざわざこの為に敦賀までのこのこついて来た自分はアホだろうか、情けなさを嘆くも芋粥は待ってはくれない、好意を無下にしちゃいかんと無理矢理飲み込むも嫌だ、満腹になりたくないのだ、そこへ狐登場、助かった…!と思えばヤツも芋粥を食べ始める、自分の願いとは一体……ああ、余計な事を知らずに生きてたあの時は幸せだった、

そのつづきは……:

  1. これからは望みもなく、惨めな一生を過ごすのだろう。
    (欲望失う/人生に耐える)
  2. 満腹は免れた、欲望への一心さは失われたが、細細と同じ望みを抱き、耐えてゆこう。
    (欲望もつ/耐える)
  3. また別の望みが持てるだろうか、そうして辛苦に耐えてゆこう。
    (別の欲望もつ/耐える)
  4. もうどうでもいい、絶望しかない。
    (欲望失う/耐えない:死)
  5. もうどうでもいい、欲望にそうこだわる必要もあるまい。
    (欲望失う/耐えない:吹っ切れる)

これ以外にも考えられるし、両立や中間項もあると思う。

例えば2から派生、
「欲望への一心さは失われたが、細細と同じ望みを抱こう。利仁の側にいれば前ほど耐え続ける必要もないかもしれん。そんな自分にはお似合いか」
(弱い欲望でちょっと耐える)
というような。

欲望を持ち続けたい心と、欲望からの解放は両立するのかもしれない。

『地獄変』でも解釈が分かれるような仕掛けを使っていたが、この作品もそうだったりするのだろうか。
考えれば考えるほど変容していく。
なんだこれは、のほほんとした見かけなのにとんでもないな!と眉を寄せつつも、楽しい読書でありました。



関連



2015-08-01

『羅生門』芥川龍之介 ★4

青空文庫

あらすじ

職を失った下人は餓死か、さもなければ盗賊になるか、と思い悩んでいた。
そんな時、女の遺体から髪を抜いている老婆に会い、行為のおぞましさに刀を抜いて問いただす。
下人はこんな悪に手を染めるくらいなら、餓死してもかまわぬ、と思うほどだった。

老婆は「女も元はヘビを干魚と騙し、金を稼いでいたのだ。やらなければ餓死するのだから、仕方がない。その仕方がない事をわかっていた女は、わしのやる事も許すだろう」と言う。

下人にはある勇気がわいていた。
「では、おれが引剥をしようと恨むまいな」
そう言って、下人は老婆の着物を剥ぎ取ると、夜の闇に消えていった。


感想

国語の授業でもやったはずがうろ覚えだった。
昔はいくらか老婆に同情した気がする。
今回はそんなこと微塵も思わず、自分の中のある種の純粋さは朽ち果てたのだな、と思った。

下人は結局盗賊になるが、むしろ最初の正義感が強いと感じる。
悪の種類にもよるだろうが、餓死を選ぶってすごいことだ。

引剥をしようと決心がついた時の感情が気になる。
純粋に老婆の話を真に受けて、「じゃあ俺も同じ事するけど恨みっこなしな!」なのか。
それとも気味悪老婆に、仕返しをする意味も含まれていたのか?
それによってキャラクターがちょっと変わってくるよなー。


感想のテンプレ

しかし他の人の感想を見ようと検索してみると、「読書感想文のテンプレ」ってのがわんさかひっかかって苦笑する。
こんだけあれば、あちこちからピックアップしてそれなりに自分の言葉に変えて、たぶん先生にはバレずに済むだろう、煩わしい宿題のひとつは片付くわけだ。
テンプレを用意する側も合わせて、それもなかなか興味深い人間心理。

『鼻』芥川龍之介 ★3


口にまで垂れ下がる長い鼻を持つお坊さんの話。
人と違うものをもっている恥ずかしさ、劣等感。
同じような鼻を持っている人はいないか、どうにかして人並みの鼻にできないかと苦心し、はたしてその願いは叶うのだけれど……
――人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。
普通の鼻になったお坊さんは、逆に嘲笑の的になってしまうのだった。

どうも今鬱々とした気分で読んでいるせいか、人間、他人を貶めたい感情を持つことも常理とはいえ、修行をつんでるお坊さんでもそういう感情から免れないのか、と残念に受け取ってしまう。
(物語上のことなのだが)

しかし最後には、鼻は元に戻りお坊さんは安堵する。

変な鼻の方が、周囲には受け入れられているのだ。
前半で「変」なはずだったものが、最後には変じゃなくなっている、価値観の転換。
(お坊さんが普通の鼻である事のほうが、変なのだ)

そしてお坊さんも、あれだけ嫌がっていたものに「戻ってよかった」と思う。
逆転現象が起きているのが面白い。