2015-01-18

『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』 米原万里 ★4

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (文芸シリーズ)
タイトルに惹かれて購入。
作者が在プラハ・ソビエト学校に通っていた頃の、友達との思い出を軸にしたエッセイ。

3篇で構成されていて、私が世界史の教科書で学んできた「共産主義」「革命」「紛争」といった「出来事」の、その「中」で生きてきた人達の豊かな、時に厳しい話だった。

といって難しいわけでもなく、語りが軽妙なおかげでとても読みやすい。
2日くらいで読んでしまったんじゃないだろうか。

特に心に残ったのは3つ目「白い都のヤスミンカ」。

2つ目までは「面白いけど、そこまで評判になるほどかなあ」と思ってたけど、最後の1篇では国同士の緊張状態が学校に波及していく話、親友ヤースナやその親族の住む町が紛争地帯になってしまう話を含め、色々と考えさせられた。



引用とメモ


/は略
「日本はモンスーン気候帯に所在」
 という記述を見つけて、自然と顔がほころぶのを抑えきれなかったのである。/……今書き進みながら思う。なんとたわいのない!
 それでも、このときのナショナリズム体験は、私に教えてくれた。異国、異文化、異邦人に接した時、人は自己を自己たらしめ、他者と隔てる全てのものを確認しようと躍起になる。/一種の自己保全本能、自己肯定本能のようなものではないだろうか。
p119

「だいたい抽象的な人類の一員なんて、この世に一人も存在しないのよ。誰もが、地球上の具体的な場所で、具体的な時間に、何らかの民族に属する親たちから生まれ、具体的な文化や気候条件のもとで、何らかの言語を母語として育つ。どの人にも、まるで大海の一滴の水のように、母なる文化と言語が息づいている。母国の歴史が背後霊のように絡みついている。」
p182
アーニャの誠実顔。嘘をつくときの顔。
自国の惨状を、にも関わらず自分が富を享受してきた者だってことを、本当は気づいてるけど、「狭い民族主義」と誤魔化している。
自分にも嘘をついているのかな。


 毎日、ソ連人の子どもたちと机を並べて学んでいた私は、ソ連共産党機関紙『プラウダ』と日本から半月遅れで届く日本共産党機関紙『アカハタ』とを目を皿にして読み較べた。お互いを罵り合う、その憎悪の激しさにショックを受けた。
 十三歳の少女の目から見ても奇異に映ったのは、双方、相手の書簡や論文を掲載せずに、つまり読者の目からは隠したまま、その内容を口を極めて非難していることだった。
p204
この部分は自分にも思い当たる記憶がある。
中学の頃だろうか、とある宗教新聞を目にする機会があった。
それには敵対する宗教への罵詈雑言を載せるコーナーがあり、私は子どもながらびっくりしたものだ。「道徳を説く人たちが作り、見ているものなのに、こういう記事を毎回載せることに誰も疑問を抱かないのだろうか?」と。


ヤースナが学校を辞めた話。p233
p258にあるディズダレービッチ・ライフの紳士録を読むと、「自主管理労組」は自分の父親が心血注いでやってた事だったんだね。それを馬鹿にされたら、そりゃ頭にくるだろうなあ…。


最初、表題の「赤」は嘘つきの色と、共産主義の色とかけてるんかなーと考えてたんだけど、3篇合わせて見るとタイトルの色は「青、赤、白」。
どういう意味か首をひねってたら、こちらのレビューに「赤富士」と書かれてた。
表題が「赤」なのも、富士の色だからか~。なるほどでした。


検索:プラハの春チャウシェスクユーゴスラヴィア紛争


MAP



左:ナウハイム
右:旧ユーゴ、ノーヴィサード


セルビア北部がボイボディナ自治州


セルビア首都ベオグラード、カレメグダン公園  >Google Map

2015-01-17

ぐるぐるまわれ。「輪廻」

※2015.01.17:ピュタゴラス教団の項目追加。


輪廻についての覚書。ここを基本に: 輪廻 - Wikipedia

因果応報ってバラモン/ヒンドゥーの影響が強いんかなあ。2014.10.20



バラモン教


五火二道説 >新講座23五火二道説

五火説

  1. 火葬されると月にとどまり
  2. 雨となって地に降り注ぐ
  3. 植物に吸収され穀物となり
  4. 食べた男の体内に入り精子となり
  5. 母体に入って胎児となり再生

二道説

死後ふたつの道がある。

  • 神道
    正しい修行と信仰をもつと行ける。輪廻から脱出できる。
  • 祖道
    一般人はこっち。地上に再生する。
    何になるかは生前の行い(業)によって決まる。

    「熱心に信仰に励めば、お布施をすれば高い階級に生まれ変われるよ」
    バラモン集権

    「君の身分が低いのは、前世で悪いことをしてきたからだよ」
    身分制の正当化


ヒンドゥー教


信心と業(カルマ)によって次の輪廻(来世)の宿命が定まる。具体的には、カースト(ヴァルナ)の位階が定まるなどである。


仏教その1


輪廻=苦  そこからの解脱が目的。
輪廻において、主体となるべき「」は想定しない(無我)。

へえ~、輪廻っていうと、自分の魂というか、核というか、
そんなものが保存されて生まれ変わるイメージだったんだけど、そういうのは無いのかー。

無我でなければそもそも輪廻転生は成り立たない。

ふむふむ。 「我」があると考えると、
ずっとあり続ける(恒常)/無くなることもある(無常) の二択になる。

  • ずっとあり続ける → 輪廻が永遠につづくから解脱できない。
  • 無くなることもある → どっかで輪廻が切れるから、輪廻にならない。
だから我は無いと考えるのが妥当、ということみたい。


え、じゃあ自分が無いのだとしたら、
生まれ変わって別の姿になっても別に関係ないよな~
何が輪廻するんだー?とよくわかんなくなってたら、
ここの「輪廻する主体がないのだから~」とちょっと似てるかも)
こんな風に書いてあった:

これら二つの極端に近づくことなく、中道によって如来は法を説くのである。
無明によって行がある。行によって意識がある。(中略)…執着によって生存がある。生存によって老いること・死ぬこと・愁・悲・苦・憂・悩がある。

つまり、生まれ変わりとかじゃなくて、
無明 → 行 → 意識 → (略) → 苦の集まり
という、苦を生む連鎖(縁起)が「輪廻」ということかー >十二因縁 - Wikipedia

むかし倫理の授業で、
仏教の基本的な考え方に「中道」というものがあると教わったんだけど、
「我」という主体を置くと、「恒常」か「無常」かの極端しかなくなる。
そのどちらでもなく中道、それは「我」を置かないことで見つかる道、てのが面白いなあ。


結生識

この理解が難しい。Wikiでは「認識のエネルギー云々」といわれてる部分。

成る過程は、現在の生存だけにとどまりません。意識の連続性があるかぎり、次の生存でも何かに成り続けていくのです。死ぬ瞬間の識(cuti-citta)から、新たな生存の結生識(patisandhi-viññâna)が生まれてきます。あるひとつの識が、次の識を生みだすというプロセスは、絶え間なく続いていきます。ただ、それぞれの識が現れる場所が変化するのです。このとき因果の連続性が、距離によって妨げられることはありません。
うーん。



仏教その2 刹那滅


2年前のメモより。
たしか歴史上の哲学を総覧する本(書名失念)と、このサイトを読んで書いた。
自分の言葉が多いので、意味が合ってるかはわからないが、考え方は面白いからのっけとく。
世界は一瞬一瞬生滅を繰り返す

  • 仏教は「無我」を説く
  • 原始仏教「刹那に消滅する業の存続体が輪廻の主体である」
という文言から考えて、以下のような捉え方になると思われる。

  1. 世界は一瞬一瞬生滅を繰り返す。
    一瞬ごとに私は死に、そして生まれる。
    一瞬前の私と、今の私は別のものである。
    だから「私」という絶対の、固定された存在はない。=無我
  2. あるのは業、行いの起こりと結果だけ(因果)。
    あたかも自分が確固たる存在のように、途切れなく連続しているように見えるのは、この因果が繋がりを持つからだ。

    [因] 一瞬前の自分の行い → [果] 今の自分
    [因] 今の自分の行い → [果] 一瞬後の自分

    さらに因果は、先の時間へ、様々な要素へと広がりを持つ。
    何も因果を持つのは人だけではない。
    土中の水や養分で植物は成長する。
    呼吸をし、光合成で酸素を作る。種を生む。枯れて土となる。
    様々な動物は生み出された酸素を吸う。肉や実を食い成長する。
    糞をし土を肥やす。子を産む。
    それぞれの要素、水、養分、植物、酸素、動物、各々が因を起こし果を生む。
  3. こういった世界観であれば、何者も確固とした存在とはなり得ない。
    常に移り変わってゆく。
    刹那に散り、咲き続ける無限の花びらのように。
    「諸行無常」とはそのような意味ではないだろうか。

こういう世界観であれば、
その1の「結生識」も、少しはイメージしやすくなるような……気がする。

ついでにこのメモ。
関係性の哲学

確固とした存在がなく、全て因果で成り立つ世界というのは、
「関係性の哲学」とも言うことができそうだ。

私というのは、気が遠くなるほどの数々の因果によって成り立つ存在であるが、
私自身も何かにはたらきかけることで、大きな結果を残す可能性もある
(結果が自分のものかはまた別の話。なぜなら固定した自分など無いので)。

そういった発展性に目を向けると、寂々とした雰囲気だけでなく、
なかなか夢がある思想にも思える。


チベット仏教

亡くなった高僧の生まれ変わりを探す、という番組をやってて。

生まれ変わりと見られる赤ちゃんにテストを施す。
赤ちゃんが複数の道具の中から生前高僧が使ってたものを選び当てると、
生まれ変わりだ!ということで親元を離れ、以降は寺院で修行、という内容。

上の「仏教」の理解だと、輪廻転生って「我」は保存されないから、
生前の記憶とか使ってたものとか関係あるのかなって考えてたんだけど……
また違う理解の仕方なんだろうか。

ダライ・ラマ - Wikipedia
チベット仏教


六道

Wikipedia

六道輪廻図
  照光寺所蔵・製作の仏教美術【仏画師:宮坂宥明】


ピュタゴラス教団

この教団の教義によれば、肉体は魂の牢獄であって、魂は死後もさまざまな動物の肉体に輪廻するように定められている。この輪廻の輪から解脱するためには、何よりもまず魂を浄化しなければならない。そのため、信者たちには厳格な禁欲生活が強いられた。 教団に入会を認められた者は、自分の全財産を共有物として差しだし、白い亜麻の衣服を身につけた。最初の5年間は堅く口を閉じて沈黙を守らねばならず、教祖に会うことは許されなかった。毎日の生活は分刻みで決められており、朝夕には自分の行ないを深く見つめなおすことが求められた。食べてよいのは蜂蜜やパンや野菜ぐらいで、飲むのは水だけだった。肉を食べなかったのは、輪廻転生を信じていたからで、動物に生まれ変わった知人をうっかり食べてしまうことを恐れたから
図解 哲学がわかる本

2015-01-16

電子書籍と紙の本

私が本を読む手立ては、だいたい図書館かネットで中古本購入。
それにここ1年で電子書籍が加わった。

最近ちょっと嫌なのは、電子書籍アプリが増えてくこと。

  • Google Play ブックス
  • Amazon Kindle
  • 楽天Kobo
  • Sony Reader
こういうの一元化したい……したいけど、無理なんだろうなあ。
「あの本電子で読んだけど、どこで買ったっけ?」なんて思うことも出てきた。



電子書籍嫌い


妹は「読書好き」と公言するほど本の虫じゃ無いけど、断固紙派で面白い。
昔気質なのか、いまいち嫌な印象があるのか、電子書籍の話になるといつもイヤイヤと首を横に振る。

そんな妹に折衷派の私は、利点もあるよと話すのだが:

  • しおりはさみ放題、傍線引き放題(メモはアプリによる)。元を汚さなくて済む。
  • 本の中身を検索できる。
  • 英語本の辞書引きが楽。
  • 文字の拡大縮小が自由。
  • 劣化しない。
  • 本棚を圧迫しない、何冊もが1つのモバイルで持ち運べる。


使ってると不便な点、紙の方がいいなと思うところも確かに見えてくる:

  • そもそも、読みたい本が電子化してない事が多い。
    また、電子版は仕様が違うこともあるので注意が必要。
  • メモが取れない読書アプリは、いちいちメモアプリに切り替えないといけない。
  • パラパラめくれない。
    紙だったら、この辺かなと見当つけてめくってればすぐ目当てのページが見つかるが、それができない。
  • ページ数が固定じゃないので、ページ表記を引用の標にできない。
  • 調整できるものの、ディスプレイの光が気になる事も。

電子書籍をすごく嫌ってる人もいるようだけど、紙の本が無くなるんじゃないかって不安も一因にあるんだろうか。
愛するピンチョンのエッセイで知った、「ラッダイト運動」が頭に浮かんだ。
攻殻機動隊の15話にも「ラッダイト」ってセリフが出てきて、ビクッ!となったっけ。
ピンチョンのせいで意識してしまう言葉だ。



本が消える


家に泊まりに来た父の客人から、「知り合いが電子書籍を色々買ってたんだけど、大本のサービスが無くなって、データが消えちゃったって」なんて話を聞いて、そんなこともあるのかーと:

なるほどなあ…頭に入れとこ。



決定的に


で、おととい決定的に「あ、こりゃ紙の方がいいな」と気づく出来事があって。

先日『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』という本を、中古が安かったので紙で購入。
評判どおり読みやすくて、興味を惹く内容だった。

母や妹も好きかもなーと勧めてみることにしたんだけど、
「あれ?そういや電子書籍だと、こういうのができなくない?」

データを送るわけにはいかないし、タブレットごと渡すにも、自分も使うし。
「これ面白かったよ、ちょっと読んでみて」
と気軽に感動を共有するようには、電子書籍はできてないんだなーと。

まーそんなに人に勧めたい本ばかり買うわけでもないのだけど。
私にとってこの部分は、結構大きい。


読もう読もうと思ってる『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』も、もう4年前の本なのかー。
挑発的なタイトルだけど、絶対そんなこと思ってないだろ~、ってね!
紙の本がなくなるわけがない。と思う。


はよ読まないかんなあ。
読みたい本がどんどんたまってく。

2015-01-14

ジパングへの途 西洋古地図に描かれた極東像




東京行ってた時にちょうど開催されてて、見に行ってきた!

私はむかーし、望夢楼というサイトの「幻想諸島航海記 > 金銀島」というページを見つけてから、昔の地図に興味をもつように。
今回の企画展は、まさに今まで本だけで見聞きしてきたような地図を実際に見られるとあって、ワクワクしながら(ワークワーク島とかけてるわけじゃない)現地へ。



さっそく迷う


渋谷にある大学へ着いたけど、「國學院大學博物館」というのがどこにあるのかわからない。

受付の方に「道路を挟んで向こう側の、学術メディアセンターにあります」と聞いてそっちへ。が、中にも博物館らしき所がなくて、なんか手がかりないかとウロウロ。
貼られたポスターに「開催:センター地下」と書いてあったので、地下へ行く方法を探す。

が、ない。

通路奥に地下への階段を見つけるが、「関係者以外立入禁止」とあって、さすがに違うよな~と。

だんだんゲームのダンジョンみたいに思えてきて、「なんだこれは、隠し通路とかあるのか!?」なんてちょっと興奮してきたのだが、もっかい戻って受付の人に聞いたら、「外に入口がある」と。

……ありました。めっちゃわかりやすい。



マルコ・ポーロ『東方見聞録』


まず登場したのは13世紀の『東方見聞録』複製版。

ジパングの財宝を狙うフビライ・ハンらモンゴル軍は、暴風雨により孤島へ避難。
そこで始まったモンゴル(手前)vsジパング(奥)の挿絵だそう。

ジパングについて「大陸沿岸から1500海里に位置し、豊富な黄金をもっている」と説明。

実際目にしたものは、思ってたよりかなり大きくて、色も鮮やか。
装飾も凝ってて、これ全部書くのどれくらい時間かかったんだろう…と気になった。



マッパ・ムンディ(ヘレフォード図)

"Hereford Mappa Mundi 1300".
Licensed under パブリック・ドメイン
via ウィキメディア・コモンズ.

中世ヨーロッパの世界地図を「マッパ・ムンディ」と言うそうだ。
「マップ」の語源なんだって。

中でもこの「ヘレフォード図」は最大のもので、高さは私の身長くらいある(158cm)。
上の図は色が茶系だが、私が見たものは海や川がもっと鮮やかな青と水色、右上の赤いベロみたいな部分(ペルシア湾と紅海)も目立っていた。

エルサレムが中央にあり、上端のまあるい島が東のエデンを表すそう。 >図
大まかな位置把握は以下がわかりやすい。


Wikipediaを読んで気になったのは、この部分:
タファナ島と四つの小島

タファナ(Island of Taphana)とはスリランカ、またはスマトラ島を示しているという説もある。
古代ギリシアやローマでは「タプロバネ」(Taprobane)と呼ばれていた。
四つの小島はクリュセ(Chryse)・アルギュラ(Argyra)・オフィル(Ophir)・フロンディシア(Frondisia)を指す。
それぞれが実在するどの島と対応しているかは不明だが、オフィル島は旧約聖書において黄金を産出する場所と記されている。
これは先の「幻想諸島航海記」にもある記述。
伝説の金銀島は実際にはどこのことだったのか?


関連:



カタラン・アトラス


これも美しく、眺めていて面白い地図だった。1375年。
極東の海はカラフルな小島で埋め尽くされている。
「7548島あり、金、銀、香辛料、高価な石が手に入る」




15~16世紀


いよいよ地図に、極東に位置する日本(cimpagu、zinpangri)が登場する。

1549年にはフランシスコ・ザビエルも鹿児島の祇園之洲町に到着。
どうでもいいけど、祇園之洲って地元じゃ「ぎおのす」と言ってるから、正式名「ぎおんのす」と聞いてびっくりだ。カーチャンもびっくりしていた。


1554、「ローポ・オーメンの世界図」にはじめて実在の日本が描かれる。
半島の先に位置する、九州のような日本(japam)。
そして、その東にはジパングが別に存在する。
日本=ジパング、というわけではなかったらしい。
これがかなり意外だった!

1571、「ドゥラード アジア沿岸図」もおもしろい。
右上にあるのが日本。九州、四国もちゃんとあっていい感じの形をしてるのだが、本州の北の沿岸がツルツルしてるのは、たぶんまだよくわかってないんだろうなあ、と。気持ちわかる。



1570、「オルテリウス 東インド図」は「IAPAN - この島をマルコ・ポーロはZipangriと呼ぶ」と紹介。1589、「オルテリウス 太平洋図」は日本の北に「Isla de Plata 銀島」を描き、「おそらく昔のアルギュラ Argyra」と記述。

ジパングと言われたりジパングは別にあると言われたり銀を産出するから伝説の銀島なんだと言われたり。う~ん、いろいろあったんだなあ。

あとはー、日本の描かれ方に4つほどパターンがあって、その比較図が展示されてたり。
「都」が「ミヤコ」っていう都市名?になってるのも、面白かった。

ジパング=日本になっていく過程は、『ジパングと日本』という本に詳しく載ってるそうなので、また読んでみよっかなーと思う。


関連:
日本はこう描かれてきた - 北海道改め埼玉の備忘録



その後


たくさんの埴輪と土器に囲まれ、特に鹿とイノシシの埴輪に心惹かれ、イノシシはどう見てもイノシシっていうかアナグマじゃね?と突っ込みながら博物館をあとにした。

お腹が空いたので帰りにレッグオンダイナーに寄って、パインバーガーってのを食べて、リンツでチョコ食べて、渋谷の探検はおしまい。酢豚のパイナップルはあんまり好きではないが、ここのはおいしかった。ピクルスはいまいちだったけどね。

東京観光はあと「中井英夫展」と、山種美術館の記事も書きたいんだけど…、まあまた気が向いたら書こー。



2015-01-13

『ん ― 日本語最後の謎に挑む』 山口謠司 ★3

ん―日本語最後の謎に挑む (新潮新書)

感想


「ん」という文字が生まれ、広く使われるようになった経緯を紹介。
関連して空海がもたらした阿吽の思想、濁音を嫌う日本文化、研究者譚などが織り込まれる。
わかりやすく書いてあり、まったく素人の私でも親しみをもって読むことができた。

面白くなってきたのは7章からだが、「ん」ついて色んな方面から話題を提供する代わりに、その奥深さを伝えきるにはページが足りていないように思う。

特に「ん が意味する薄明の世界」は突然降ってわいたような印象。
はいでもいいえでもない曖昧さ、日本語の清濁を繋ぐ役割、と興味深い内容だけに、さらに踏み込んだものが読みたかった。

謎に挑むというよりは歴史概観と話題提供の趣が強い。



メモ


下記はたぶん誤植:
  • 『韻鏡』うは『切韻』をもとに作られた
  • 恵果が入定、う三月には


大まかな流れ

漢文
 ↓ 古事記 712 日本書紀 720
万葉仮名上代日本語上代特殊仮名遣
 ↓
ひらがなカタカナ 〜800
 ↓
訓読 9c


日本に伝わった読み方

南北朝時代、南の「呉音」(上海あたり)が日本へ
 ↓
隋、唐の共通語「漢音」の字書『切韻』が成立 600
 ↓
桓武天皇「漢音を使うように」 792
 ↓
宋代、増訂版の『広韻』が出る
 ↓
『韻鏡』が音を図表化する


撥音 [n, ng, m...]

中国(漢文)には「ン」の音がある。
古代日本に「ン」を表す文字はなく、イ、ニ、ム、レで代用していた。

このとき「ン」の代用として使われた言葉が、
そのまま読まれてしまい現在の読み方になっているものもある。
オモシロイ

神奈月 かんなづきなど、『古事記』『日本書紀』では「神 かみ」が「かん」に変化。
しかし「上」や「髪」は変化しない。
上代日本語の甲乙の音の違いが要因にある。


江戸時代の研究者(7章)

1715 新井白石『同文通考』著。60刊。
 「ン」の字は、梵字で撥音を表す「」からきているという説。

1777 礪波今道『喉音用字考』
 [n][m]の2つの撥音がある。

1787 論争。大和言葉に「ん」の音があったかどうか。
 あった : 上田秋成 『雨月物語』作者。礪波の説。
 なかった: 本居宣長 「純粋な50音しかない」

1800 宣長71歳、『地名字音転用例』

1808 東条義門『男信なましな初稿。35成立、42刊。

1834 関政方せきまさみち『傭字例』。『韻鏡』を使い[n][m]の違いを明らかに。

1844 関『男信質疑』。前年没した義門を追悼、『男信』への回答。

1860 白井寛陰『音韻仮名用例かなづかい』 [n][m][ng]の3種が明らかに。


2015-01-06

お知らせ

好きなもので埋めようと思って書いてきたこのブログ。

結果格ゲー配信にドはまりした時期と重なって、そっち方面の記事が多いのですが、そろそろ方向転換することにしました。

やはり好きなものについて書くとなると、どうしてもそれなりに時間をかけてしまいます。
好きだってことを伝えたいし、自分にとっては書くことも楽しいので、余計に。
でもこれからはその時間を別の方面で使った方がいいかな、と感じています。

格ゲー関連、顔TV関連の記事は今後しばらく更新はないです。
しばらくって言うとまた書いちゃいそうだからな……1年。1年はないです。
そっちを期待して見に来てくれた方もいそうなので……

こんな拙いブログですが、今までどうもありがとうございました。
感謝の限りです。



読書感想や雑記なんかは今後もちょこちょこ書いてくと思います。
物好きな方はご覧いただければ幸いです。

2015-01-02

窯焚き(炭化)


うちの父は陶芸家なんですが、11月に電気窯で初めて炭化をやるというので、ちょこっと見学させてもらいました。
むか~し灯油窯(左)での仕事を見たことがあるんですが、その時の窯から出る炎と、そこへ「ドォン!ドォン!」と勢い良く薪を入れていく父の姿が圧巻で。

炭化というのは、簡単に言うと焼き方の種類で、「窯の中の酸素を少なくする」ことです。

窯に木を入れる → 木が酸素と結びついて炭化する → 窯の酸素がなくなる という。

「還元」とも言います。
酸化 ←→ 還元 と理科で習った、あれです。


こっちが電気窯。
窯の温度は1200度以上で、下からオレンジの光が漏れています。


倒れることで温度を計測できるゼーゲルコーン。



工房に着くと父が炭化の準備をしていました。
火を止め、急いで空気の取り入れ口を塞ぎます。
アチッアチッ!と言いながら、時間との勝負なので急いでの作業。



そして薪の投入開始。
裏に回って、窯を開き、隙間から…





投入!薪を次々と放り込んでいきます。
煙が出ているかどうか、温度の下がり方などを確認しながらの投入。



室内には煙が立ち込め始める。


一回目が終わった時点での温度は1121度。今回は下がり方が早いそう。


ノートにメモする父。



そして様子を見つつまた投入。
これを繰り返し、窯の酸素を少なくしていくそうです。
間近で見てるとあっついぞ、本当に。


一度突っ込んで取り出した木。もう炭になってる。



投入が終わったあとは、窯をそのまま置いて熱を冷まし、中の物が取り出せるくらいになったら窯を開いて完成品を見る…というような形です。

この窯での炭化は初めてということもあり、薪の投入量や切り方など、いろいろ改善点が見つかった模様。
ちょっと前まで磁器に凝っていた父ですが、最近はまさに「焼物」といった感の黒い器を作るようになってて、これが結構かっこいいんだな。器の方もまた紹介できればなと思います。





そんで、机に置いてあった急須を「綺麗だ~!」って言ったら、もらえた!
やったね。

内側はお茶が染みないよう釉薬がかかってて、外側は焼き締め。
生地の感触がそのまま残ってます。
模様のついた印鑑をグッグと打っていって、褐色の土をすり込んで色をつけたもの。



2014年 餅つき会

年末になると、うちの工房で餅つき会を行うのが恒例になってます。 >2012/12/26
その時の写真です。


工房がある山へ。
うちはデリバリーピザも宅配範囲外になってるくらいザ・田舎。



今年は全部で35人くらいいました。結構な人数。

左のせいろで餅米を蒸してます。
右はお湯で、せいろの下に足したり、臼を洗うために一日中沸かしてます。



見るとさっそくなんか焼いてる!バチマグロのカマだとか。
むしゃぶりついていると、「ワイルドだね」と何人かに笑われました。
香ばしくておいしかったー。



今年は若い女の子が多くて、最後まで頑張ってくれました。
腰が入っててすごい。私はこういうの下手なので、餅を丸めるのをお手伝い。
そしてできたての餅をいただく。大根おろしで食べるのがんまい。



今年も蝋梅のいい香り。



奥では薪割り大会。火をずっと焚いてるので、薪もたくさん使います。



お昼の雑煮。野菜いっぱいでおいしい。



午後。
虫好きの親子連れにカミキリムシを見せてあげようと樹皮をむく父。
(父は趣味でカミキリの研究をしている)
上の方にうにょうにょした線がありますが、それが食痕。
採れたケブカトラは、イヌマキの樹を枯らすことで知られた害虫らしい。



大人数だけあって、みんなの餅つきが終わったのは4:30頃。
締めにはよもぎ餅、ねったぼ(からいも餅)を作ります。
よもぎや芋を足す分、かさが増えて大変。

まあ私は丸めるか食べるだけなんですが…
特にできたてのからいも餅は、とろ~んとして絶品。



たくさん食べた~。また来年!