2017-12-06

一般意味論

最近、ヴィゴツキーの内言論コージブスキーの一般意味論というのを知った。

一般意味論というのは、ざっくり言って「私たちが普段どれだけ言葉 (*1) に囚われているかを自覚して、誤解を生まないよう、トレーニングしていこう」というような内容。

*1
一般意味論は、記号、言葉についてだけを言うのではないそうだ >Wikipedia
ふだん無意識にやっている、抽象化全般についての警句?



たとえば、脳トレで文字色ゲームというのがある。
文字色が何色かを素早く言い当てるゲームだ。>FLASH FABRICA
↓これだと

   

「青、緑、赤」と答えなきゃいけない。
でも、私たちはつい文字そのものを読んでしまって、「赤、青、黃」と言ってしまう癖がある。私なんか、上の「黃」書いてる時「別の色にしなきゃー」と思いながら黄色塗っちゃって、言葉の影響力やべーな!と思った。
ストループ効果


また、言葉は連続したものを断片化する。
連続したもの……境界が曖昧なもの、たとえば感情とか?
「先生に好意をもってるんだけど……憧れと恋愛の線引きはどこ?」という悩みがあるとして、その感情は「ここまでが憧れね!」「こっからが恋愛!」ときっちり線が引かれてる訳じゃない。
でも、私たちはその曖昧な感情のグラデーションに自分なりに線引きをして、「これは憧れかな」「こ、これが恋……!」なんて、ラベルを貼って捉えている。言葉はグラデーションのありのままを伝えるわけではない。

「じゃあ、憧れから恋愛にかけての微妙な心持ち、って言えばいーじゃん」と思ったけれど、そんな風にまとめるとき、それは細部を失っている。やはり、ありのままではない。

今度はそれを「複雑な乙女心なんだよー」と友達に話してみた。
すると友達は「好きになっちゃいけない人を好きになっちゃったんだ……(だから複雑なんだ)」と、意味を違えて捉えてしまった。言葉の抽象化が、元の心境からの解離を招いてしまう。


こんな風に、言葉には色々と性質がある。
世界を捉えるには便利なツール (*2) なのだけども、使うのが当たり前すぎて、その性質にひっかかってる事にすら気づきにくい。
そして、「線引きする」「ラベルを貼る」という作業は、豊かな世界を枠にはめること。自分が枠に囚われることでもある。
ここが『恐怖の兜』を思い出させる。

(ほかにも、読んだ本に「幼児がことばを習得する、あるいは外国語を学ぶ事は、既に他の人達によって出来上がった体系を受け継ぐこと。その意味で牢獄となる」みたいな内容があった。この場合は世界づくりに自主的に参加できてないって意味での牢獄。『記号論への招待』池上嘉彦

*2
ツールという言い方をしたけど、その言葉がふさわしくない面もある。
言葉と認識の関係について - Yahoo!知恵袋





ただし、言葉は今書いてきたような窮屈な性質だけじゃない。
ひとつの言葉に何重にも意味をもたせることもできるし、比喩で全然別の言葉を貼っ付けたりもできる。

ダンセイニは太陽を黄金の鞠と呼んだ。その太陽の姿は、ありのままではない……日常で見る太陽でもないし、理科で習うようなやけに詳細な太陽でもないが、間違いじゃない。「黄金の鞠」から受けるイメージと繋がって、新しい姿を見せてくれる。
カウボーイの投げ縄みたいなもので、言葉は豊かさを縛るかもしれないが、一度捕らえたものは自由に使える。全然別のとこで捕まえたもの同士を同じ縄で括りつけたり、たくさんを括ったり、あるいは小分けしたり、色々工夫して豊かさを新たに生むことができる。

だから私は詩や俳句って素晴らしいと思うし、文学が好きだし、本を読むのが楽しい。
ていうか、「ありのまま」って何なわけ?

よく知らない人と意見をすり合わせる必要があるなら一般的な言葉の使い方するだろうし、厳密さが必要なら窮屈な方がいい。詩的な要素が必要だと思ったら、どうにか一般的な使い方から飛躍できないかあれこれ考えるだろうし。

でもそういう事をなるべく意識的にやるには、言葉の特性を学ぶことが大事なんだね。



メモ:
「一般意味論(PDF)」足立正治
一般意味論 - Wikipedia
お氣らくそうごうけんきゅうしょ: 一般意味論事始め 27の視点
思考と内言・外言 : 心理学用語集