2015-10-02

『告げ口心臓』ポー★4


原題『The Tell-Tale Heart』

「Tell-Tale」:秘密を暴露する、の意。
訳によって「裏切る心臓」「おしゃべり心臓」「暴露させる心臓」とも。


感想

ラストにかけて語り手の狂いっぷりがこわい。
老人を殺そうと思った動機、罪の意識の無さ、狂人ではないとやけに主張する、など理解できない部分がいくつかあるけど、特に7日間の儀式が意味不明で、それをさもわかって当然と語ってるところがゾッとする。
以下ネタバレあり。

解説もいくつか読んでみたけど、最初「『黒猫』『ウィリアム・ウィルソン』同様、良心の物語」という説明に拒否反応が出た。

つまり、

  • 黒猫=自分の良心
  • もう一人のウィリアム=自分の良心
  • 老人の眼や心臓=自分の良心

というわけで、「なんでもかんでも“良心”じゃなあ……」と思ったのだった。
あと「意味不明だからこそ感じる恐怖を手放したくない」という気持ちもあった。

これについては、老人の眼の比喩「ハゲタカ」が科学非難の詩「To Science」の中で「=科学、=全てを明確にし魔術を壊す存在」として扱われていることを知って (3) p76 、それなら「老人の眼がなぜ怖いか?」と答えを明らかにする行為もまた、この恐怖――ポーが用意した魔術――を壊す行為になるんじゃないか?なんて考えも手伝った。

しかし好奇心には勝てず、もうちょい探ってみると、この“良心”まわりの考察がかなり深い……。
なんでもかんでも良心の話なのは、題材が普遍的であることの裏返しで、むしろそのモチーフからこれだけ個性の強い短編を生み出していったことに驚くのだった。


(ついでに私は、ポーの作品感想で「良心」という言葉は気軽に使えないと感じる。
良心とは「社会的ルールを守ろうとする心」だが、それが良いか悪いかはまた切り離して考えたいので、「良」が含まれてるとちょっとひっかかるのだ。
良心:Conscienceという単語にも「science」が含まれてたり、由来が「知と共に」だったりで、それについても「神→理性の時代」との関連で惹かれるけれど……まあまた何か思いついたら)



メモ


語り手が罪悪感を感じない理由

語り手は老人殺しを悪いと思っていないようだ。
この理由が、『ポー短編小説の一側面 (1)』松阪仁伺 を読んでわかったような気がした。
『ウィリアム・ウィルソン』についての論だけど、他の作品にも通じるので簡単に紹介:
ウィリアムは「本能に従う奔放な自分」と、「社会の中で生き、ルールを守ろうとする自分」に二分している。
好き勝手したいのにルールに縛られる、これは一般的によくわかることだ。
その葛藤(分裂)を抑えるため、普通はルールを優先し、自分の欲望を我慢することで社会とうまくやってく。
だが彼は逆なのだ。
「社会的自分」を切り捨て、「本能的自分」となって生きる。
この姿こそ本当の自分だと信じている彼は、ルールを破って当たり前、罪悪感を感じない。
……ということだ。
『告げ口心臓』の語り手にも、同じようなことが起きているのでは、と考えられる。

だがあくまでそれは彼が信じる姿であり、実際の姿とはズレがあった。
抑圧された「社会的自分」は、今の行いが悪だと告げにやってくる。
老人の目や、心臓の音に姿を変えて。

『ポーのperverseness再考』松阪仁伺 によれば、この行為には「自分の心を思うままに操作できる」という理性偏重の思い上がりがあり、理性主義に対する批判も読み取れるという。


目が怖いから殺す

老人殺害の動機。
なぜそんなに目が怖いのかは語らない。

  • 心を見透かされるのが怖かった?
  • 監視されることが嫌だった?
    • 養父アランの面影、父の監視:子に社会性を刻み行動を制限する (3) p78
    • 『ウィリアム・ウィルソン』では監督してくるウィルソン2に憎悪を抱く。

上の「罪悪感を感じない理由」を踏まえたあとだと、語り手もなんでここまで目が怖いのかわかってないんじゃないか?と思える。
だから、語らないんじゃなく「語れない」し、老人に不満が全くないのではなかろうか。

目が怖い理由としてすぐに思いつくのは、「自分にやましさがあり、心を見透かされるのが怖かった」だ。
しかし語り手は老人殺しを悪いと思ってないような、「悪を悪と思わない」人間だから、やましさなんて感じもしないだろう。
だったら、他人の目なんか怖くないはずである。
だけど、怖いらしい。

それは、「悪を悪と思わない」のは表面だけで、無意識下では「悪である」と知っているからだ。
老人の邪眼が単数で書かれ、「Evil eye……"Evil I"」と読める (1) p119 のも、この暗示なのかもしれない。

心の奥では自分がどれだけの悪事を働いたか、いかに自分が邪悪かを知っていて、だから老人の目が恐ろしい。
もしかしたら老人に相当な負い目を感じるような、過ちを犯してしまったのかもしれない。
だが表面の自分はこういった認識を受け取らないので、得体の知れない恐怖だけが残る。
老人に過ちを犯していたとしても「当然すべきだった事」になり、負い目もなく老人との関係は良好である。

それで殺そう、と短絡的に考えるのもまた、「殺しを悪と思ってない」「自分にとって邪魔なので、当然すべき事」なのだろう。


夜ごとの儀式

毎日深夜、忍び込んでランタンの光を邪眼に当てたが、目が閉じているので「仕損じた」と話す。……何を?
これも意味不明でこわい。

  • 邪眼だから、光を当てて浄化しようとした……または焼こうとしたとか……?
  • 見られる恐怖を逆手に取り、こちらが見る側になることで恐怖を与え優位に立った。(1) p114
  • この儀式は『ウィリアム・ウィルソン』でウィリアム2の部屋を尋ねるシーンに似ている。
    また、光がウィリアム2が現れる前触れとして使われている。


老人と語り手の一体化

8日目の夜から始まる。
老人が感じている恐怖に語り手が共感すること、どちらのものかわからない心臓の音が鳴ることで、一体化したように感じる。
老人の恐怖か語り手の興奮か、両者の感情が鼓動とともに激しく伝わり、相乗効果が出る。

これまで見てきた通り、語り手は二つに分裂し、「社会的自分」を抑え込んでいる。
だからそいつは、無意識下で作用を起こす。

例えば酒浸りになって、表面の自分は「好きにさせろい!」と思っているが、無意識の自分は「ああ、また飲んでしまった…」と恥じている。
それが周囲に投影されると、他人の目が「また飲んだの……」と責めるように感じられたり、軽蔑、または嘲笑されてるように感じたりする。
それは他人が実際どう思ってようが関係なく、自分の心が見せている。

だから、恐怖を与える老人の目=社会規範を守れと警告する自分(良心)なのだった。

自分が他人に投影されてるんだから、そりゃ一体感も感じるか、なんて考えたけど、『ウィリアム・ウィルソン』や『黒猫』は分裂の方が印象的なので、同一化を描いたこの作品は、対の面を見せているという事なのだろうか。


そして殺しは繰り返される

『ポウの犯罪小説とその同時代性』福岡和子 には気になる文章がある。
「自分の葛藤が親しい他者に転移されるため、そこから逃れるには殺害するしかない。これは自己救済の行為なのである」
「彼をその犯罪行為から、またその結果としての絶望から解き放つものがあるとすれば、
それは自己破壊しかない」
「人に負い目を負う」というスタートは既に切られてしまった。
今後「恐怖を感じる目」を殺し、そして自白し……を繰り返す語り手が頭に浮かび、ゾッとする。
しかもそれは、心臓が鳴り続ける限り――自分が生きている限り続くのだ。

自白が自分を追い詰める行為(自己破壊)なのはもちろんだが、絶望から解き放つ行為(救済)でもあるというのは、社会が罪を償うシステムを供給してくれるからだ。
物語の終わりには警察が登場するので、彼の殺人ループもひとまずは檻の中で中断、となるのだろう。

そして、こういう救いを求める殺人鬼をいつまでも捕まえないのがエリスの『アメリカン・サイコ』だ。
わざとかと思えるほど殺人鬼を捕まえない、よって彼は救われない、よって人殺しも止まない、悪夢の世界である。

ポーが生み落とした魔性の数々は972夜『ポオ全集』松岡正剛を読んでも恐れ入ったが、改めてその底知れなさを感じる。
ポーすげえ。


参考


  1. 『不安のありか -"The Tell-Tale Heart"試論-』西山けい子
  2. 『ポー短編小説の一側面 (1)』松阪仁伺
  3. 『ポー短編小説の一側面 (2)』〃
  4. 『ポーのperverseness再考』〃
  5. 『ポウの犯罪小説とその同時代性』福岡和子


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