📖『木曜日だった男』杯の中の、朝の光🌱 - チェスタトン【とことん解説・考察】

----- 25/04 現在、編集中 -----

2016.01.19 公開
2025.03.31 改訂

伸縮自在な地獄へ
ようこそ

時は19世紀ロンドン。
詩人サイムは、爆弾テロで街を脅かす「無政府主義」の真っ只中に潜りこむ。組織と戦うアクションもの? それともスパイ・ミステリー?

いやいや、物語は『不思議の国のアリス』のドタバタ劇にさま変わり。ナンセンスを詰めこんだ地獄の門が、にやりと口を開けて笑う。

詩人サイムは地獄へと降りていく。

作家チェスタトンが描いたのは、世界と向き合うの格闘だ。 👊💥
「……魂って宗教? キリスト教の話わかんないよ。ムズそう」

まかせろ。深ーーいとこまで、信仰ナニソレ?な人も辿れるように書いたるで~。
それに核心は、どんな人にでも刺さる話だ。さすがこの男、探偵小説『ブラウン神父』シリーズの著者である。

以下ネタバレあり。

無政府主義って?

この本の「無政府主義」アナーキズムは、政府に歯向かうだけじゃない。私たちの価値観の破壊を狙うやからだ。

無政府主義者 グレゴリー:

「神をぶっ壊すためだ!」グレゴリーは、狂気じみた目で叫んだ。
「俺たちは、世界そのものを吹き飛ばしたいんだ。“悪徳”と“美徳”、“名誉”と“裏切り”、 反逆者でさえ信じてる区別――そんなもん、ぜんぶ否定したい。俺たちはもう、善も悪も廃止したんだ」

詩人サイムをスパイに誘った警官:

「泥棒は財産を尊重しているんです。彼らはただ、それが自分のものになればいいと思っているだけです。でも、哲学者は所有という考え方を壊したいんです。
 重婚者は、意外に結婚を大事にしています。でなければ、あんなに形式にこだわったりはしませんからね。でも、哲学者は結婚という仕組みを軽蔑しているんです。
 殺人者でさえ、人の命を重く見ているんです。より価値が低いと思う命を犠牲にして、自分の命を守ろうとする。でも、哲学者は命そのものが嫌いなんです。自分の命も、他人の命も」

つまり:

  • グレゴリー = 無政府主義者 = 哲学者*
    *主に虚無主義。キリスト教的な価値観を破壊する、という意味では近・現代哲学全般そうなのが面白い。

me

私、ゴミの分別わりと好きだけどな。グレゴリーは袋つついて中身散らかしそう。

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カラスか? その点、神って世界を分別するからやべーよな。

1日目 神は天と地をつくった。やみが淵のおもてにあり、「光あれ」の言葉で昼夜ができた。
2日目 神は空をつくった。
3日目 神は大地と海をつくり、地に植物を生やした……
me

世界に秩序をつくったのは神か! だからグレゴリーは「神をぶっ壊す」って言ってるんだ。

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聖書だと、神の反抗者といえばサタン😈。だから、グレゴリーもサタンとして描かれてるね。

me

その男、神の全き秩序コスモスを破壊せんと、混沌カオスより来たれり―――。

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サイムは敬虔なキリスト教信者だ。この小説は、守る者サイム vs. 壊す者 グレゴリーの話なんだね。

サイム vs. グレゴリー

1章。
ふたりの詩人が、詩がどちらに属するかで討論する。ここで物語の対立軸がはっきりする:

サイム
キリスト教、法、常識、秩序、分別、体制
グレゴリー
サタン、テロリズム、破壊、無秩序、自由、混沌、無分別、反体制

サイムはこうぶち上げる:

詩的でないのは君のほうだよ」と、詩人サイムは言い返した。
「混沌は退屈なものだ。なぜなら、そこでは列車はどこへでも行くかもしれない――ベイカー・ストリートへも、バグダッドへも。しかし、人間は魔術師だ。その魔法の本質とは、彼が『ヴィクトリア駅へ行こう』と言い、すると本当にそこへ行くことだ!君は人間の敗北を記したバイロンを読めばいい。僕には人間の勝利を記したブラッドショーの時刻表をくれ!」

グレゴリーは、芸術家らしく「常識を破壊したい」と言う。

ところがサイムは、常識は約束されたものじゃない、と言う。太陽は明日も昇る? 私の存在は一瞬あとも続く? 今まではそうだったよ。でも、次はどうかわからない。
だから、当たり前が当たり前であることがすごいのだ。日常は感動まみれなのだ。それが何よりも詩的なことなのだ、と説く。

これはベントリーへの序文にあるように、まだ世の中の「当たり前」を知らない、幼い子供が目にする世界だ。知恵の実を食べる前の、無垢で驚きに満ちた世界。実を食べ、一度常識を知ってしまったら、なかなか戻れる場所じゃない。

巷でよく目にする「常識を疑え」のフレ-ズは、壁を破壊するつちとして振るえばグレゴリー的だ。対してサイムは、壁がいつも同じところに、同じ様子で存在することに驚く。日常に大量の奇跡が侵食する。そして、そんな純粋なサイムをあざ笑うように、物語は続く。

ここ、地獄。

2章で、サイムは無政府主義が蔓延はびこる世界へ落ちていく。ここから先、世界は自由に伸縮しはじめ、一瞬先の予測も立たない。
「当たり前が当たり前であることがすごい(ガチ)」な世界観をあらわにする。

たとえば:

  • テロリストがテロリストの演技をして平和に暮らし、足が悪いはずの教授は高速で追いかけ、モノマネだったはずが本物になり、善人と悪人はメガネのON/OFFだけで変わる。

  • 鼻や眉や体は引っこ抜け、街全体が無政府主義になる。敵かと思えば味方、っていうか全員味方、じゃあ無政府主義評議会とは一体?

  • 警察と評議会、両方のトップを担う日曜日の意味不明さ。おそるべき巨体。かつ軽い。

1章のふたりは、常識が存在するからこそ「壊す」/「それ自体が奇跡」と討論できた。でも、常識が存在しない世界なら?

当たり前なことにも、当たり前じゃない事にもびっくりできるぞ! やったー!! ……と喜んでる場合じゃない。

me

サイムの「日常に驚きを持って接する」ってすごくいい考え方だと思うけど……

me

日常のあらゆることに真剣に驚いていったら、そこはもう非日常だなあ……

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奇跡の大洪水は、グレゴリーが求める混沌と何も変わらない。つまり地獄になり得る。

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君は、現実世界ってどっちに近いと思う? 1章の世界(地上)/2章からの世界(地下)。

me

1章の、常識がある世界寄りじゃない? 人や国、文化で常識が違うのも知ってるよ。でもこの本みたいに剣が命中して無傷とか、太ってて軽い人なんていないよ。

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それもどうかな。

信仰、教育、文化、無知、パニック、思い込み、勘違い、妄想、願望、不安、恐怖、疑心暗鬼、身体や精神疾患……こういったもので、私たちは簡単に伸縮自在な世界へ落ちる。

既に両足を突っ込んでるということだ。

宴で何が起きた?

15章。
『天地創造』の記念祭のようなきらびやかな宴。旧約聖書『ヨブ記』のパロディでもある。
流れはこんな感じ:

  1. 日曜日よ。あなたは何者? なぜこんな事を?

  2. 怒りのグレゴリー登場。「法と秩序の守護者たち」七曜を呪う💢

  3. サイムの反論。「俺たちも苦しんだ」

  4. 日曜日「汝らは我が飲む杯より飲み得るや?」

全部重要だ。順を追って見ていこう。

1. 日曜日よ。

「日曜日」こそが、すべての首謀者だった。
サイムたちは口々に、怒り、虚無感、疑問をぶつける:「なぜこんな事したの?

  • 「評議会幹部が全員警察」 無意味な茶番劇。いったい何がしたかった。

  • 彼が自分で言うとおり「神の平和」の体現者だったとしても……どこが神の平和だ? 理に適ってない。

みなさんもうお察しの通り、日曜日の正体は「」だ。
そしてこの「もうわけわからん!なんでや!」のくだりは、『ヨブ記』を浮かび上がらせる。

me

『ヨブ記』って?

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旧約聖書のひとつだよ。
超まじめに生きてきた男・ヨブが、突然人生ハードモードになる物語。

me

ハードモード? なんでそんなことに💦

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んー、神が自慢したくなっちゃったのよ。「俺がつくった人間のヨブだけどさ~、信仰厚くてサイコーなんだが?」

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そしたらサタンが難癖つけ始めた。「そらあんたを信仰していい思いしてるもん。苦しめたら折れるね」
神「じゃあやってみなよ」

me

え……ヨブ、災難すぎん?

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だねー。こっからヨブは一文無しになって、子供も亡くなって、腫物が体中にできて、見た目じゃヨブとわからないほどで……、とことん信仰を試されるんだ。

そんな悲惨な状況で、ヨブは神に疑問を抱く。
「私は何も悪いことをしていません。なぜこんな事をするのですか?」(10:2-7など)

因果応報?

神は正しいことを行うはず。善は報われ、悪は打たれる。因果応報。Retributive justice.
3人の友人もこう言う:「お前が何かやったんだって!はよ反省しとけ!」

ヨブは、絶対自分は潔白だ。だから、神というのは気まぐれにこういうことをするんだ、と考える。

「善は報われ、悪は打たれる」 ……その善悪の判断って、人間視点ですよね?

それをこの本に当てはめると:

わけわからん? 世界は意味不明で、めちゃくちゃで、虚無で、―――なぜこうなったか知りたい? これが神の平和だからだ。人間にはわかるまい。

2. 怒りのグレゴリー💢

そこに、サタンことグレゴリーが登場。ここに集まる「法と秩序の守護者たち」全員を非難する。

「お前たち権力者や警察、統治者は、常に安全な場所にいる。だから人々は打ち倒そうとするし、俺は呪う。ただ一度、たった一時間でも、俺が味わったような本物の苦しみがあったなら―――
me

サタンきた!さっき『ヨブ記』の話にも出てきたね!

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そうそう。グレゴリーと『ヨブ記』のサタンは、似たことを言ってるよ。

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サタン「神よ。あんたはヨブの家を垣根で囲って安全にした。家畜も殖やして安定させた。だから彼はあんたを信じてる。苦しめたら折れるね」(1:9-11)

『ヨブ記』との違いは、グレゴリーもまた苦しむ者だということ。
この点だけ押さえて、次のシーンに進もう。

3. サイムの反撃

サイムは彼を「嘘つきだ!」と一喝する。

私たちは混沌の中、サイムが疑心暗鬼に陥るのを見た。しかしそれでも「警察に言わない」という最初の誓いは守った。自分の善悪の基準まで、歪めたくなかったからだ。

苦しんだことが無いなんて嘘だ。

信仰、教育、文化、無知、パニック、思い込み、勘違い、妄想、願望、不安、恐怖、疑心暗鬼、身体や精神疾患……こういったもので、私たちは簡単に伸縮自在な世界へ落ちる。

私たちはふとすると地獄にも変貌する世界で、今まさに生きている。いつでも価値観を試される状況に、身を晒している。

  • 君の許せるウソと、許せないウソの境目ってどこ?

  • 君が「間違ってる!」と思うラインは?

  • その正義って本当に君のもの? どこかで借りてきたんじゃなく?

  • もし周りに自分の「常識」が通用しなかったら、それでも今の自分の判断を信じられる?

伸縮自在な世界の一点に、君は自分の場所を確保しようともがく。強固な石のイスなんかじゃなくって、超スピードの回転木馬で、追いつけないかもしれない。あるいは、ノミが潰すくらいちっちゃいかも。 ―――それでも君は、座ろうともがく。君の魂、信念、君自身をここに刻むために。

君は屈せず、こう言う資格をもつだろう:「 俺は世界でこう生きた 」

これこそが、サイムの言う「苦しんで得た資格」。
信念の揺らぎに忍び寄るサタンへの、「反撃」だ。

📌もう少し解説:

私が読んでて一番難しかった部分なので、いまいちまだわかんないなーという人にもう少し解説。
「苦しむことでサタンに反撃する資格を持つ」ってどゆこと? 第2章でグレゴリーは「権利(資格)を憎む」と話すので、明らかにこの本が言いたいテーマのひとつ。サタンというのは、

  • 日常に潜む誘惑への囁き

  • 信仰をやめたくなる瞬間
  • 自分の生き方を否定されるような声

を指す。日本でも「魔が差す」と言うけど、その感覚だと思う。

なんじらはわれが飲むさかづきより飲み得るや?

誇張した切り取りになるけど、ふたりはこう言った:

グレゴリー「俺だけが苦しんでいる!」
サイム「俺だって苦しんだ!」

📌こちらの解説のおかげで、一歩目を発見できた! ありがとうございます。:

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