📖『木曜日だった男』杯の中の、朝の光🌱 - チェスタトン【とことん解説】
2016.01.19 公開
2025.03.31 改訂
伸縮自在な地獄へ
ようこそ
時は19世紀ロンドン。
詩人サイムは、爆弾テロで街を脅かす「無政府主義」の真っ只中に潜りこむ。組織と戦うアクションもの? それともスパイ・ミステリー?
いやいや、物語は『不思議の国のアリス』のドタバタ劇に様変わり。ナンセンスを詰めこんだ地獄の門が、にやりと口を開けて笑う。

作家チェスタトンが描いたのは、世界と向き合う魂の格闘だ。
「……魂って宗教? キリスト教の話わかんないよ。ムズそう」
まかせろ。深ーーいとこまで、信仰ナニソレ?な人も辿れるように書いたるで~。
それに核心は、どんな人にでも刺さる話だ。さすがこの男、探偵小説『ブラウン神父』シリーズの著者である。
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無政府主義って?
この本の「無政府主義」は、政府に歯向かうだけじゃない。私たちの価値観の破壊を狙う輩だ。
無政府主義者 グレゴリー:
「神をぶっ壊すためだ!」グレゴリーは、狂気じみた目で叫んだ。
「俺たちは、世界そのものを吹き飛ばしたいんだ。“悪徳”と“美徳”、“名誉”と“裏切り”、 反逆者でさえ信じてる区別――そんなもん、ぜんぶ否定したい。俺たちはもう、善も悪も廃止したんだ」2章
詩人サイムをスパイに誘った警官:
「殺人者でさえ、人の命を重く見ているんです。より価値が低いと思う命を犠牲にして、自分の命を守ろうとする。でも、哲学者は命そのものが嫌いなんです。自分の命も、他人の命も」4章
つまり
- グレゴリー
- = 無政府主義者
= 哲学者*
*主に虚無主義。キリスト教的な価値観を破壊する、という意味では近・現代哲学全般そうなのが面白い。

私、ゴミの分別わりと好きだけどなー。グレゴリーは袋つついて中身散らかしそう。
……カラスか? その点、神って世界を分別するからやべーよな。
1日目 神は天と地をつくった。やみが淵のおもてにあり、「光あれ」の言葉で昼夜ができた。
2日目 神は空をつくった。
3日目 神は大地と海をつくり、地に植物を生やした……
旧約聖書『創世記』

世界に秩序をつくったのは神か! だからグレゴリーは「神をぶっ壊す」って言ってるのね。
聖書だと、神の反抗者といえばサタン😈。だから、グレゴリーもサタンとして描かれてるね。

その男、神の全き秩序を破壊せんと、混沌より来たれり―――。
サイムは敬虔なキリスト教徒だ。
この小説は 守る者 vs. 壊す者 の話なんだね。
サイム vs. グレゴリー
第1章。
ふたりの詩人が、詩がどちらに属するかで討論する。ここで物語の対立軸がはっきりする:
- サイム
- キリスト教、法、常識、秩序、分別、体制
- グレゴリー
- サタン、テロリズム、破壊、無秩序、自由、混沌、無分別、反体制
サイムはこうぶち上げる:
「詩的でないのは君のほうだよ」と、詩人サイムは言い返した。
「混沌は退屈なものだ。なぜなら、そこでは列車はどこへでも行くかもしれない――ベイカー・ストリートへも、バグダッドへも。しかし、人間は魔術師だ。その魔法の本質とは、彼が『ヴィクトリア駅へ行こう』と言い、すると本当にそこへ行くことだ!君は人間の敗北を記したバイロンを読めばいい。僕には人間の勝利を記したブラッドショーの時刻表をくれ!」
グレゴリーは、芸術家らしく「常識を破壊したい」と言う。
ところがサイムは「常識は約束されたものじゃない」と言い返す。太陽は明日も昇る? 私の存在は一瞬あとも続く? 今まではそうだったよ。でも、次はどうかわからない。
だから、当たり前が当たり前であることがすごいのだ。日常は感動まみれなのだ。それが何よりも詩的なことなのだ、と説く。
これはベントリーへの序文にあるように、まだ世の中の「当たり前」を知らない幼い子供が目にする世界だ。知恵の実を食べる前の、無垢で驚きに満ちた世界。実を食べ、一度常識を知ってしまったら、なかなか戻れる場所じゃない。
巷でよく目にする「常識を疑え」のフレ-ズは、壁を破壊する槌として振るえばグレゴリー的だ。対してサイムは、壁がいつも同じところに、同じ様子で存在することに驚く。日常に大量の奇跡が侵食する。そして、そんな純粋なサイムをあざ笑うように物語は続く。
ここ、地獄。
第2章で、サイムは無政府主義が蔓延る世界へ落ちていく。ここから先、世界は自在に伸縮しはじめ、一瞬先の予測も立たない。
「当たり前が当たり前であることがすごい(ガチ)」な世界観を露にする。
たとえば
テロリストがテロリストの演技をして平和に暮らし、足が悪いはずの教授は高速で追いかけ、モノマネだったはずが本物になり、善人と悪人はメガネのON/OFFだけで変わる。
鼻や眉や体は引っこ抜け、街全体が無政府主義になる。敵かと思えば味方、っていうか全員味方、じゃあ無政府主義評議会とは一体?
警察と評議会、両方のトップを担う日曜日の意味不明さ。おそるべき巨体。かつ軽い。
第1章のふたりは、常識が存在するからこそ「壊す」/「それ自体が奇跡」と討論できた。でも、常識が存在しない世界なら?
当たり前なことにも、当たり前じゃない事にもびっくりできるぞ! やったー!! ……と喜んでる場合じゃない。

サイムの「日常に驚きを持って接する」ってすごくいい考え方だと思うけど……

日常のあらゆることに真剣に驚いていったら、そこはもう非日常だなあ……
奇跡の大洪水は、グレゴリーが求める混沌と何も変わらない。つまり地獄になり得る。
君は、現実ってどっちに近いと思う? 1章の世界(地上)/2章からの世界(地下)。

1章の、常識がある世界寄りじゃない? 人や国、文化で常識が違うのも知ってる。でもこの本みたいに剣が命中して無傷とか、太ってて軽い人なんていないよ。
それもどうかな。
信仰、教育、文化、無知、思い込み、勘違い、妄想、願望、不安、恐怖、疑心暗鬼、パニック、身体や精神疾患……こういったもので、私たちは簡単に伸縮自在な世界へ落ちる。
既に両足を突っ込んでるということ。
宴で何が起きた?
第15章。天地創造を祝うような煌びやかな宴が開かれる。
流れはこんな感じ:
日曜日よ。あなたは何者? なぜこんな事を?
怒りのグレゴリー登場。「法と秩序の守護者たち」七曜を呪う💢
サイムの反論。「俺たちも苦しんだ」
「汝らは我が飲む杯より飲み得るや?」
全部重要だ。順を追って見ていこう。
1. 日曜日よ。
日曜日こそが、すべての首謀者だった。
サイムたちは口々に怒りや虚無感、疑問をぶつける:「なぜこんな事したの?」
「評議会幹部が全員警察」という無意味な茶番劇。いったい何がしたかった。
彼が自分で言うとおり「神の平和」の体現者だったとしても……どこが神の平和だ? 理に適ってない。
みなさんもうお察しの通り、日曜日の正体は「神」だ。
そしてこの「もうわけわからん!なんでや!」のくだりは、📜ヨブ記 を浮かび上がらせる。

ヨブ記って?
旧約聖書のひとつだよ。
超まじめに生きてきた男・ヨブが、突然人生ハードモードになる物語。

ハードモード? なんでそんなことに💦
神が自慢したくなっちゃったのよ。「俺がつくった人間のヨブだけどさ~、信仰あつくてサイコーなんだが?」
そしたらサタンが難癖つけ始めた。「そらあんたを信仰していい思いしてるもん。苦しめたら折れるね」
神「じゃあやってみなよ」

え……? ヨブ、災難すぎん?
だねー。こっからヨブは一文無しになって、子供も亡くなって、腫物が体中にできて、見た目じゃヨブとわからないほどで……、とことん信仰を試されるんだ。
そんな悲惨な状況で、ヨブは神に疑問を抱く。
「私は何も悪いことをしていません。なぜこんな事をするのですか?」(10:2-7など)
因果応報?
神は正しいことを行うはず。善は報われ、悪は打たれる。因果応報。Retributive justice. ヨブの友人たちもこう言う:「お前が何かやったんだって!はよ反省しとけ!」
ヨブは、絶対自分は潔白だ。だから、神というのは気まぐれにこういうことをするんだ、と考える。「善は報われ、悪は打たれる」 ……その善悪の判断って、人間視点ですよね?
それをこの本に当てはめると
わけわからん? 世界は意味不明で、めちゃくちゃで、虚無で、⋯⋯なぜこうなったか知りたい? これが神の平和だからだ。人間にはわかるまい。
2. 怒りのグレゴリー💢
そこに、サタンことグレゴリーが登場。ここに集まる「法と秩序の守護者たち」全員を非難する。
「お前たち権力者や警察、統治者は、常に安全な場所にいる。だから人々は打ち倒そうとするし、俺は呪う。ただ一度、たった一時間でも、俺が味わったような本物の苦しみがあったなら―――」

サタンきた!さっきヨブ記の話にも出てきたね!
そうそう。グレゴリーとヨブ記のサタンは、似たことを言ってるよ。
サタン「神よ。あんたはヨブの家を垣根で囲って安全にした。家畜も殖やして安定させた。だから彼はあんたを信じてる。苦しめたら折れるだろうね」(1:9-11)
ヨブ記との違いは、グレゴリーもまた苦しむ者だということ。
この点だけ押さえて、次のシーンに進もう。
3. サイムの反撃
サイムは彼を「嘘つきだ!」と一喝する。
私たちは混沌の中、サイムが疑心暗鬼に陥るのを見た。それでも「警察に言わない」という最初の誓いは守った。自分の善悪の基準まで、歪めたくなかったからだ。
苦しんだことが無いなんて嘘だ。
信仰、教育、文化、無知、思い込み、勘違い、妄想、願望、不安、恐怖、疑心暗鬼、パニック、身体や精神疾患……こういったもので、私たちは簡単に伸縮自在な世界へ落ちる。
私たちはふとすると地獄にも変貌する世界で、今まさに生きている。いつでも価値観を試される状況に、身を晒している。
君の許せるウソと、許せないウソの境目ってどこ?
君が「間違ってる!」と思うラインは?
その正義って本当に君のもの? どこかで借りてきたんじゃなく?
周りに自分の常識が通用しなくても、自分の判断を信じられる?
伸縮自在な世界の一点に、君は自分の場所を確保しようともがく。頑強な石のイスなんかじゃなくって、超スピードの回転木馬で、追いつけないかもしれない。あるいは、ノミが潰すくらいちっちゃいかも。 ―――それでも君は、座ろうともがく。君の魂、信念、君自身をここに刻むために。
君は屈せず、こう言う資格をもつだろう:「 俺は世界でこう生きた 」
これこそが、サイムの言う「苦しんで得た資格」。
信念の揺らぎに忍び寄るサタンへの、「魂の反撃」だ。
📌もう少し解説。
私が読んでいて一番難しかった部分なので、いまいちわかんないなーという人にもう少し解説。まずはサイムの印象的なセリフについて。
存在するすべてのもの――
なぜこの地上のすべてのものは、他のあらゆるものと争わなきゃならないのか?
「なぜ人は苦しまなきゃいけないんだろう?」ヨブ記のテーマをサイムなりの言葉で話す。
それは、俺があの恐ろしい評議会でひとり孤独に置かれたのと同じ理由だ。法に従う者が、無政府主義者と同じ栄光と孤独を持つために。
「法と秩序に立つ側も、無秩序を経験するためだ」
(=サタンを糾弾する側も、苦しみを通る必要があるからだ)
ヨブ記の試練。日常でそれなりにまっとうに生活を営むことと同義だと思う。下の「サタンへの反撃」参照。
そして、涙と苦痛の果てに、この男に向かって叫ぶ資格を得るために――
「お前の言葉は嘘だ!」と。
「苦しみを通して私たちは手に入れる。サタンを跳ねのける力を」
試練を通過したヨブは信仰心を証明し、サタンを打ち負かした。「嘘だ!」というのは逆転裁判でいう「異議あり!」みたいな感じ。否定する、拒否する、跳ねのけること。
言葉 💭
サタン
-
自分の芯がブレる瞬間の例え。日本でも「魔が差す」と言う。こんな風に信念がぐらぐら揺れる時、君の中でサタンが笑っている:
悪い誘惑に乗ってしまう。
感情に飲まれて自暴自棄になる。
自分を裏切る。
何やってもしょーもない。虚無感に苛まれる。
自尊心、誇りがぽっきり折れる。
サタンへの反撃
「サタンに反撃するには?」=「自分が折れそうな時、何が奮い立たせてくれる?」
答えのひとつが「これまでの生き方」。自分に恥じない行動をしてきたという事実が、今の自分に力を与える。「これまで私はよーやってきた。だから今度も負けるわけがない」
この小説でサイムが見せてくれたこと。地獄に降りる、苦しむ
思い通りに行かない、不条理がまかり通る、自分の常識ではかれない世の中をチェスタトンは「地獄」としてパロディ化。キリスト教的には「秩序の範囲外」の意味が強いかも。
でも「神が秩序をつくった。神の意思は全なのだから、秩序の範囲外ができるのはおかしい。じゃあそれ込みで秩序ということだ」という話がこの15章を通して起きている。
そんな中で苦しむというのは、たとえ秩序の定義がぐちゃぐちゃになったとしても目の前の世の中と向き合うこと*にほかならない。*ケプラーを思い出す。コペルニクスの地動説後も、常識は「神の完全なる円軌道」から離れられず、結果精度もイマイチ。そんな中で地道に観測と計算を重ね「楕円軌道こそ神の秩序」と発見した人。地動説に決定打を与えた人。
汝らは我が飲む杯より飲み得るや?
「あなたたちは、私がこれから受ける苦難を背負えるか?」
杯の意味
十字架、苦難
※旧約聖書での神の怒り、裁きという意味を引き継ぐ。ほかの場面では違う意味のことも。神との断絶と現行の全人類の罪過を一身に引き受ける、とてつもなく重い苦しみ。※宗派で違いあり。
📌引用元のシーン
キリストの元に弟子ふたりの母が来て言う。「あなたが王座に就く時、息子ふたりを隣に置いてほしい」
キリストは弟子ふたりに尋ねる。「この私が飲もうとしている杯を飲むことはできるか?」
ふたりはそれを栄光への道と勘違いして「飲めます!」と答えるが、実は十字架という苦難のことだった。
ものすごい圧倒感

グレゴリーとサイムが「俺は苦しんだ!」「俺だって!!」と言い合うが、そのあとにドスンとくるこの響き。お前らの苦しみってこれに敵うわけ? と神ジョークが楽しめる。※ちょっと端折ってるけど。
ヨブ記最後、神が「俺が天地つくったときお前どこいたん? 人間ごときが驕ってんじゃねーぞ」とド迫力で語るシーンの再演(新約聖書ver.)でもある。
さらには、これまでのヨブ記の踏襲……「個人と神(世界)」のテーマから、一気に「人類と神(世界)」へスケールを拡大。読者の目を「個の苦しみ」 「世界の構造」へと開く場面でもある。ここの仕事量多すぎィ。
サイムにとっての意味
「理不尽な世界でも、自分の信念を曲げずにいられるか?」
サイムの信念は「世界は驚きで満ち溢れる」。たとえどんな世界でも、これを信じ続けることができるか? と神は伝えているようだ。
そして、自身が崩壊する中サイムは気づいたんだと思う。
世界が逆立ちしようが、常識が崩壊しようが、無垢で驚きの世界はそのままそこにある。
地球が都心から片田舎に追いやられ、天界が重力で落ち、円は楕円で人は猿でエーテルは虚で、たとえ絶対的時空間が伸び縮みしても、世界はその秩序で動き、そして開かれるのを待っている。
「当たり前なことにも、当たり前じゃないことにもびっくりできるぞ!やったー!!」
ふざけて書いたけど、案外核心を突いてたのかもしれない。
杯の中の、朝の光
夜が明ける。サイムの新たな日常の始まり。
15章の宴は実際に天地創造のお祝いだった。
1章で「兄と同じ赤色の髪を編んで⋯⋯」いた少女、ロザモンドが現れる。
少女(1章/日常)とグレゴリー(2章~/無秩序)は兄妹。地続きのものだよ、とこの本は伝える。薔薇と血、そして世界が始まる朝焼けは、ともに赤色だ。
そう、そうなのだ。隣を歩くグレゴリーもまた、サイムと同じく苦しんだ者なのだ。
だから、彼にだって「驚きの世界」を見つける資格はある。世界は彼にも開かれている。
ロザモンドがライラックを手折る。何の変哲もない、愛らしい日常が金色の光の中に溶け込む。赤と金。
チェスタトン自身が暗闇を抜けた時。
彼もこの光を目にしたのだろう。
謝辞
📌こちらの解説のおかげで、一歩目を発見できた! ありがとうございます。
G.K.チェスタトンにおける探偵小説の地平