2016-10-10

『金色の死』谷崎潤一郎 ★2


乱歩『パノラマ島綺譚』に影響を与えた作品を読む。
ポーの『アルンハイムの地所』につづき、今回は谷崎潤一郎。
中央公論社の全集第2巻より。



あらすじ(結末もあり)

「私」が、岡村君と過ごした少年時代を語る。
ふたりは勉学を研鑽し合う仲だった。

年を経て、ともに芸術を志す。
しかしふたりの境遇は変わってくる。
岡村君は富豪の一人息子で、だんだん傲慢になる。
(傾奇者とか、婆娑羅とか、そんな感じ)

途中、ふたりの芸術論を挟む。
岡村君はレッシングの論(ある作品において、想像の余地を評価すること)を批判。
「想像の余地を残すには強烈な刺激を避けなければならない」というレッシングに、「人間の死んでしまったところ(=強烈な刺激)などはめったに作れないことになる」と言う。
彼が昔から語っていた肉体美への賛美は、より高まってゆく。

岡村君は27になって財産を継ぎ、造園を開始。
招かれた「私」は庭園をめぐる。

ギリシャやミケランジェロ、ロダンなどの彫刻をごろごろとあしらった庭。
若冲を彷彿とさせる、絢爛たる林。
アングルの「泉」、ジョルジョーネ「ヴィーナス」、ルーカス・クラナッハ「ニンフ」など、絵画を現実の人と自然で写し取ったもの。
生身の人魚や、岡村君の顔をしたケンタウルスがうじゃうじゃいる「浴槽」など……

岡村君は財産を使い果たしたと語り、「私」が滞在中の十日間、仮装をとっかえひっかえ現る。
そして最後の日は狂乱の宴を繰り広げ、如来のごとく体に金箔を塗り、そのまま亡くなってしまう。
それは美しく、明るく、荘厳で、「悲哀」の陰影の少しも交らない死であった。


感想

旧漢字で最初はちょっと読みづらかったけど、だんだん慣れた。
個人的にはあまりハマらない作品だったのだが、最後の死をどう考えるかは結構面白い。


まずひとつ。
岡村君は死によって、自身の芸術を体現できたのだろうか?
彼は芸術鑑賞に想像力など無用、芸術とは「どこまでもそこに表現された色彩もしくは形態のみの効果によって、観る人の頭へ短的に直感さるべき」と言っていた。

最後の場面。
「菩薩も羅漢も悪鬼も羅刹も、みな金色の死体に跪いて涙を流した。その光景はそのまま一幅の大涅槃像を形作って、彼は死んでもなお肉体を捧げて自己の芸術のために努力するかと訝しまれた」
「私はこのくらい美しい人間の死体を見たことがない」
とあるから、ふーむ……、効果はバツグン、だったのだろう。


そしてふたつめ。
岡村君は、レッシングもうんと頷かざるを得ない、もしくは両方の理論に適う「死の芸術」をやり遂げたのか?

レッシングの論は簡単に言うと、こういうもののようだ。

芸術家の目的は感動を生むことにある
造形美術は瞬間を永遠にする
 ↓
感動を生むに最も効果のある瞬間を捉えるべきだ
 ↓
最も効果のある瞬間とは、最も自由に想像が働く時点だ
 ↓
激情は想像の余地がない
“見る人の想像は彫刻の外へ一歩も踏み出すことができない。唯ラオコオンの呻吟するのを聞き、既に死なんとするのを見せられるばかりである”
 ↓
激情の寸前、または激情を最もよく察知させる瞬間こそが選ばれるべき一瞬だ


「金色の死」が激情を想起させる瞬間を描いているかというと、うーん、そうではないよなあ。
「金色の肉体が大涅槃像のごとく顕現する」……というのはあくまで岡村君の理論に則って芸術的価値があるもので、レッシングの論は範疇外みたいだ。


彼の死に顔を見て、「死の間際どんな気持ちだったのだろう」とか、「彼はどんな人だったのだろう」と思いを馳せることは、彼にとって侮辱になるんかなあ。

この小説自体、岡村君の「歴史」を書いているから、読者が最後を読む時「こんな人が、こういう死を遂げた」という、見方になってしまうんだよね。岡村君がケッて言いそうな見方に。
本来なら、最後の死だけあればいいのだけど。
それだと小説では物足りないだろうし……、むずかしなあ。

(レッシングは詩文についても自説を述べているから、そこについて小説の形で意趣返しなり何なりしたかったのかなあ、とも思ったけどややこしそうだからもうやめておく。)


余談になるけども、若冲の花鳥園のような庭園には行ってみたい。
そういえばむかし展覧会で若冲の涅槃図を観たのだけど、野菜や果物で構成されてとても面白かったのだよね。
観る機会があれば是非。


メモ

  • チャリネ → 1886年来日したイタリアのサーカス
  • ギオルギオネのヰ゛ナス → ジョルジョーネのヴィーナス
  • ルカス、クラナハ → ルーカス・クラナッハ
  • 點 → 点
  • ラオコオン論争 - Wikipedia
  • ヴィンケルマン - Wikipedia
    レッシングと同じく「激情は避けるべき」という人だけども、理由が違う。

    ギリシャ彫刻の傑作は激情の中でも偉大で安定した魂を描いている
     ↓
    これが理想の美である
     ↓
    激烈狂暴な表現は不当であり、避けるべきだ

    たしかポーの『アルンハイム~』で、芸術は自然を理想化すべきもの云々と書いてあったけど、この人の言葉だったのか。


『パノラマ島』と比べてみて

  • ポーと同じく、語り部の存在感は希薄。自分の生い立ちや境遇を語るけれども、やはり岡村君の添え物といった感じがある。けれど嫉妬心や競争心などが出てきて、より物語っぽくなっている。『パノラマ島』は成り代わりや妻の猜疑心など、さらに人間ドラマを重ねているのだなとわかった。
  • 庭園はどちらも奇怪で肉感的で、傾向は似てる。岡村君のとこは絵画・彫刻寄りで、人見君のとこは景観寄りだけども。特に、パノラマ島にはトピアリーと生身の彫刻を混在させた園があるそうだが、そこで受ける印象は似てそうだ。
    もしかすると、椿の池にいた女の子のシーンも影響があるのかもしれない。
  • 岡村君は自らの死で自らの芸術を体現したけど、人見の花火もそうだったんだろうか。
    探偵「あなたの芸術に仕える僕として、いさぎよく処決を」→ 花火
    だから、そうだったのかもなあ。芸術論と関連が低いので、あまり感応するところがなかったが……。


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