2016-01-19

『木曜日だった男』チェスタトン★4


感想

ひとりの詩人が、おそるべき「無政府主義」を掲げるテロ組織の中枢に乗り込む話。

組織との戦いを描くアクション活劇、または組織の謎を解くミステリ、かと思って読んでいけば、最終的にはチェスタトン自身の過去の悪夢を紐解き、信仰について説いた本だったのだなと、趣が変わっていった。

しかし、解説がなければだいぶわからない作品だったと思う。
まず、初見ではなんのことかわからなかった、幼なじみベントリー宛ての序文がとても大事だったということ。
そして、きちんと理解するにはキリスト教の知識がいるということ。
親しい人に比べたら、私の理解度は相当低いだろうなあ。

以下、解釈や気づいたこと。



無政府主義ってなんぞ

この本での「無政府主義」というのは、狂信家グレゴリーが言うに

「我々の望みは単に二、三の専制政府と警察機構を転覆することではない。/我々の願いは、悪徳と美徳、名誉と裏切りといった恣意的な差別を否定することだ。ただの叛逆者どもはそういうものに依って立っているがね。」

詩人サイムをこの仕事に誘った警官が言うに

「泥棒は財産を尊重します。ただ、それをもっと完全に尊重するため、自分の財産にしたいと思うだけです。しかし、哲学者は財産としての財産を嫌っていて、私有の観念それ自体を打ち壊したいと願うのです。重婚者は結婚制度に敬意を払います。/しかし、哲学者は結婚としての結婚を軽蔑しています。殺人犯は人間の生を尊重しています。/しかし、哲学者は生そのものを憎んでいます――/」

という事で、政府打倒どころか、分別を破壊する連中、という考え方。
("/"は略の意)

※ここからネタバレあり。
















「天地創造」からして、世界に分別をつけるのは神の業。
それに反抗する者=サタン。
無政府主義者、サタンは世界の分別を破壊し、混沌をもたらす。




最後の宴

万物を模した衣装の人々が踊り、七曜が席につき、創造を祝う。
聖書の「天地創造」を思い出す。

ここで議論が起き、六曜それぞれが日曜日に対して意見を述べるが、これはその時代の人の「信仰に対する見方」を表しているのだろうか?
キリスト教信仰のぐらついた時代だった、と解説にあるように、幸せを感じる者もいれば、疑いや迷いを口にするメンバーもいる。

「日曜日、あなたは一体何者なんだ?」と切に答えを欲しがる六曜の疑心暗鬼は、キリスト教に対する「神とは何だ?」「信じてもいいのだろうか?」という疑問に通じる気がする。

その答えや、如何に?




サタン登場 

サタンこと本物の無政府主義者、グレゴリーが登場。
サイムは彼を「嘘つきだ!」と喝破、以下の天啓を得る。
このシーンは解釈がむずかしい。

「世界の中うちにあるちっぽけな物が、なぜ世界そのものと戦うのか?」
→ サイムが孤独に組織の中枢へ乗り込んだ、もっと言えば、日曜日が乗り込ませた、その理由は、

「無政府主義者の栄光と孤独を得るため」
「爆弾魔と同じ勇敢で善い人間になるため」
→ 敵の中に身を投じ、敵を理解して、

「あの男に『嘘つきだ!』と言うためなんだ」
→ サタンを退けるため

……と考えたものの、敵を理解する事がなぜ退ける事につながるんだろう。
弱点を把握するためじゃないのは物語的に明らかだし。

誰かの言葉の真偽を判定するには、その人が見ている世界へ足を踏み入れる必要があるってことか……?肝心な部分がわからないなーと思っていると、こんなサイトを見つけた。


なるほど……チェスタトンの哲学が、列車について言い合うシーンに表れていたんだなあ。

鹿児島駅を出たら次は桜島桟橋駅……と当たり前に思っていることが、実は当たり前でないとしたら?実は着かない可能性は千とあって、着いたことが奇跡だとしたら?
そういう見方をすれば、世の中のすべてが新鮮で、驚きの連続になるだろう。
普段はなんのこっちゃない、「桜島桟橋~」という到着アナウンスが、私に歓喜をもたらすのだ。

……なんという純真さ……純真すぎる!
まだ世の中の「当たり前」を知らない、幼い子供の世界の見方だ(ベントリーへの序文にあるように)。


だがこれは、常識を知ってしまったら、一度それを疑わないと会得できない思考だ。
はたして、本当に「当たり前」は「当たり前」なのか?と。

太陽は明日も同じように昇るのか?
私の存在は一瞬後も続くか?
今まで続いてきたからって、この先もそうだと言えるのか?


実際サイムも、「当たり前」が通用しない世界に放り込まれて疑心暗鬼に陥る。

テロリストがテロリストの演技をして平和に暮らしてるし、足が悪いはずの教授がめっちゃ高速で追いかけてくるし、教授はモノマネだったのに本物になっちゃうし、メガネだけで善人が悪人に変わる、鼻やら眉やら体は引っこ抜ける、街全体が無政府主義者になる、敵かと思えば味方、ていうか全員味方、じゃあ評議会とは一体なんだったのか、警察と無政府組織両方の中心を担う日曜日の意味不明さ、ついでにおそるべき巨体なのに軽い、……そういえばサイムだって、無政府主義を敵視しすぎてそれより兇暴だった。


のとおり、これはサタンの世界だ。分別をなくした、混沌の中だ。
(悪夢に苛まれた青年期チェスタトンの世界)

「当たり前」は「当たり前」じゃない。
太陽は明日も同じように昇るのか? わからん。
私の存在は一瞬後も続くか? わからん。
今まで続いてきたからって、この先もそうだと言えるのか? 言えない!

でも、……いや、だからこそ、世界は驚きと感動に満ちている!!


先のサイトのヨブ記、応報思想のくだりを読むと、この考え方が信仰と関連してくるのだが、信仰関係なく理解できる考え方だなーと思う。もう一度さっきのテーブルを貼ると、こんな感じになるのかな。

「世界の中うちにあるちっぽけな物が、なぜ世界そのものと戦うのか?」
→ サイムが孤独に組織の中枢へ乗り込んだ、もっと言えば、日曜日が乗り込ませた、その理由は、

「無政府主義者の栄光と孤独を得るため」
「爆弾魔と同じ勇敢で善い人間になるため」
→ 分別の崩壊した混沌の中に身を投じ、

「あの男に『嘘つきだ!』と言うためなんだ」
→ 奇跡の集まりである世界(神の創造)を見出すため。それを指摘し、サタンを退けるため。

悪夢の中にいた青年チェスタトンに光が差したのは、子供時代を思い出したからだという。参照




だけど、混沌に染まったらダメっぽい。

チェスタトン『正統とは何か』より。("/"は略)

正統は何かしら鈍重で、単調で、安全なものだという俗信がある。/だが実は、正統ほど危険に満ち、興奮に満ちたものはほかにかつてあったためしがない。正統とは正気であった。そして正気であることは、狂気であることよりもはるかにドラマチックなものである。正統は、いわば荒れ狂って疾走する馬を御す人の平衡だったのだ。/落ちることは、いつでも簡単である。落ちこむ斜面は無限にある。/けれども、そのすべてを避けきったということは、まさに目も眩むばかりの冒険だったのだ。
狂人となることは容易である。異端者となることも容易である。時節の波の間に間に流されるのは容易なことだ。しかし自説を曲げずに貫きとおすのは容易ではない。

サイムの冒険も、まさにそうだった。
街全体が無政府主義に変貌したときも、流されたり、諦めたりしなかった。
混沌の中に足を進めても、それにのみこまれてはいけない。サタンの餌食だ。

以下、15章の日曜日のセリフ。

「この世の始まりにも、私はおまえたちを戦場に送った。/私は、武勇と常ならぬ徳を示せと命じる声にすぎなかった。/だが、おまえたちは人間だった。秘めたる誉れを忘れなかった――全宇宙がおまえたちからそれをもぎ取ろうとする拷問機械に変わっても。」




汝らは我が飲む杯より飲み得るや?

日曜日の最後の言葉。
キリスト教に疎いので、こういう部分がわからない。
ひとまず聖書を読めるサイトで探すと、マタイ20:20-28マルコ10:35-45の言葉とわかった。

意味を調べると、ここでの杯は苦難を表すとのことで、「わたしが受ける苦難を、あなた達は受けることができますか?」となりそうだ。
だが、キリストは自分がこのあと鞭打たれ、殺されるとわかっていて、しかもそれは全人類の罪を背負う意味をもっている。それを考えると、この「苦難」は重いどころではない。

詳しくは以下参照。


なるほど、聖書に親しい人なら、日曜日のセリフでキリストの受難にすぐ思い至るだろうから、「そんなお方(キリスト)に“苦しんだことありますか?”だなんて、サイムはとんでもないこと聞いたなぁ!」と思うに違いない。
ウィットの効いた締めだなあ。

ついでに聖書のその箇所で、キリストの弟子が「あなたについていくから良い地位を下さい」とお願いをするのだが、その行動は「サタン登場」で触れたヨブ記の応報思想と通じる。



そしてまた最初に戻り


世界の見方が変貌したサイムは、新世界を歩む気持ちでグレゴリーと歩いているんだろうなあ。
素敵だ。

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