2015-08-04

『眼球譚 太陽肛門/供犠/松毬の眼』バタイユ ★3

眼球譚 太陽肛門/供犠/松毬の眼 (ジョルジュ・バタイユ著作集)

2011/06/28

巷で「エログロ小説」と言われていて気になっていた本書。
どれだけ眼に憑かれているかを語る、フェチズム的な本なのかな?と思いながら読んだ。
以下twitterより。



p60まで読んだ。
もっと耽美な、もしくは濃厚なエロシーンが羅列してあるかと思えばそうでもない。
自慰の見せ合いや精液、尿のかけっこ。
オーガズムのない遊びがずっと続く感覚。
グロもまだ無いが、「卵を落す」が「目玉を落す」になったのが予兆かも。
しかし小便は臭いし、後始末が大変そうだ。



読み終わった。
エログロというより冒涜小説の印象。
この小説が書かれた時代、キリスト教の倫理観が今よりはまだ生きていた時代には、まさにエログロだったのかもしれない。
目玉をくり抜いたあと、まさか眼窩姦を…?と思ったがそれは無かった(なんとなくなりそうな気がした)。
シモーヌは穴より目玉に憑かれていたので、眼窩には興味がないのかな。


闘牛の描写:
白色や、バラや、薄ねずみ色の、穢らわしい色彩の臓物の束を足の間から漏らすとき。張り裂けた膀胱が突如、砂の上に馬の小便の水溜りをぶちまけるとき…
について、張り裂けぶちまけられるのは臓物じゃないのか、と意外に思う。
散々小便について描いてきて、ここにきてもまた尿なのだ。
飛び散る血のイメージを省略して、この激しさを小便に託すというのは、いかに小便に対して強迫観念があるかというか…、小便じゃないとだめなんだろうなあ。


私は見たのだ、シモーヌの毛むくじゃらの陰門の中に、マルセルの薄青色の眼が小便の涙を垂らしながら私を見つめているのを
のラストには脱帽。
これはシモーヌがくり抜かれた聖職者の目玉を自分の中に入れてしまうという描写だが、フロイトやシンボルについての記事で読んだ女性の陰門への恐怖、「あそこはなんでも飲み込むブラックホール」というのが頭に浮かんだ。
こっちは飲み込むんじゃなく、見つめるアソコである。
しかも小便の涙を流して!
うーん、半端ない。

最後の章「回想」で、なぜこういうものを書くに至ったかの経緯説明があるのだけど、むしろこの章を主人公とシモーヌの背景として描かなかったのはなぜなんだろうか。
物語描写から離れたところで書く事が必要だったのか?
本編を、作者の白昼夢のようなものとして書きたかったのかなあ。
この章はまだ途中までしか読んでない。


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