2015-04-01

『ジーザス・サン』 デニス・ジョンソン ★4

ジーザス・サン (エクス・リブリス)



「前後不覚」な語りで綴る11の短篇集。

それは今起きてることなのか?思い出?幻覚?それとも願望?
現実にレイヤーが何層も重なってて、語り手はその幽霊みたいな人物や出来事を繋ぎ目なく語るもんだから、わけがわからない。
倫理観もぶっ飛んでるし、こりゃ飲んでるかヤク中か、でも内容はわかるから醒めかけてるのか。

「マッキネスが今日ちょっと具合悪いんだ。さっき俺、撃っちゃってさ」
「撃ったって、殺したのか?」
「そのつもりじゃなかったんだ」
「ほんとに死んだのか?」
「いや。中で休んでる」
「でも生きてるんだな」
「ああもちろん生きてる。奥の部屋で休んでる」
p53 『ダンダン』

ちょっとどころじゃねーー。
この後車で病院に連れてくんだけど、マッキネスは途中で死んじゃって、「捨てちゃえよ」と言うダンダン、「死んでよかったよ、だってこいつのせいで俺ファックヘッド(ド阿呆)って呼ばれるようになったんだから」と語り手。
なんつー世界だ。

ぶっ飛ぶといえば展開も。
目にナイフが刺さった男が来院し、医者「どうなさいましたかな?」(いやナイフ刺さっとるがな)、病院の薬盗んでハイな雑役夫ジョージーはそのナイフ抜いてるし(!?)、びっくりしたとこが幾つもある。
 p50 奴は死んだ。俺はまだ生きてる。
 p75 でも君は俺の母親だったのだ。
 p83 医者「どうなさいましたかな?」
 p120「俺、ポーランド人なんかじゃないよ」

こうして書いてみると悲惨なことになってるが、語りが淡々としてるので読んでる時は大げさに感じない。たぶん擦り切れた生活が「普通」なので、そうなるんだろう。死に麻痺してるせいで命も安い。

時折描かれる美しいものへの賛美に、感じる心がまだあるんだとほっとするが、それも幻覚が手伝っての相乗効果だったりするのだろうか。

神の啓示みたいな奇跡体験についても?
彼がそこに癒やしを見ているのが、一番哀しい事かもしれない。それしか救いがないと言ってるようで。

心に残ったのは最初と最後の二篇。
どちらも最後の言葉が印象的。



『ヒッチハイク中の事故』


ヒッチハイクで乗った車が事故り、親切な家族は死亡寸前。
ドラッグのせいか朦朧とする語り手は、現場を脱しうろうろと傍観者になり下がる。
最後だけ周りに怒りをぶつけるような強い言葉。
「なのにあんたらは、あんたら馬鹿らしい人間どもは、俺に助けてもらえると思ってるんだ」
p18
生気のない人間に一瞬だけ訪れた「生」の言葉のように感じた。
こぼれていく命をどうすることもできない無力さ、「こんな堕ちた俺にできるわけないだろ!」という暗い感情。


『ベヴァリー・ホーム』


最後の話。実はこの一篇を読むまで、途中で閉じて積読になっていた。
読んでからもう一度全部再読してこれを書いている。

まず「あれ、頭正常になってきてる?」と変化が感じられる一篇で、語り手なりの詩情に富んだ描写に面白みを感じた。内容も奇妙さが日常的に、肯定的に存在してる感じがして、好きだ。

そして最後の文章で、ちゃんと読んでみようと思い直す。
ああいう変てこな連中が大勢いて、俺は奴らに囲まれながら毎日少しずつよくなっていく。それまで俺は一度も、俺たちみたいな人間の居場所があるかもしれないなんて全然知らなかったし、一瞬たりとも想像したことすらなかったのだ。
p170

結果、テキトーで、奇妙で、哀しくて、滑稽で、時々胸に突き刺さって、すごく面白くなってきた。スルメ本かもしれない。

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