2015-01-17

ぐるぐるまわれ。「輪廻」

※2015.01.17:ピュタゴラス教団の項目追加。


輪廻についての覚書。ここを基本に: 輪廻 - Wikipedia

因果応報ってバラモン/ヒンドゥーの影響が強いんかなあ。2014.10.20



バラモン教


五火二道説 >新講座23五火二道説

五火説

  1. 火葬されると月にとどまり
  2. 雨となって地に降り注ぐ
  3. 植物に吸収され穀物となり
  4. 食べた男の体内に入り精子となり
  5. 母体に入って胎児となり再生

二道説

死後ふたつの道がある。

  • 神道
    正しい修行と信仰をもつと行ける。輪廻から脱出できる。
  • 祖道
    一般人はこっち。地上に再生する。
    何になるかは生前の行い(業)によって決まる。

    「熱心に信仰に励めば、お布施をすれば高い階級に生まれ変われるよ」
    バラモン集権

    「君の身分が低いのは、前世で悪いことをしてきたからだよ」
    身分制の正当化


ヒンドゥー教


信心と業(カルマ)によって次の輪廻(来世)の宿命が定まる。具体的には、カースト(ヴァルナ)の位階が定まるなどである。


仏教その1


輪廻=苦  そこからの解脱が目的。
輪廻において、主体となるべき「」は想定しない(無我)。

へえ~、輪廻っていうと、自分の魂というか、核というか、
そんなものが保存されて生まれ変わるイメージだったんだけど、そういうのは無いのかー。

無我でなければそもそも輪廻転生は成り立たない。

ふむふむ。 「我」があると考えると、
ずっとあり続ける(恒常)/無くなることもある(無常) の二択になる。

  • ずっとあり続ける → 輪廻が永遠につづくから解脱できない。
  • 無くなることもある → どっかで輪廻が切れるから、輪廻にならない。
だから我は無いと考えるのが妥当、ということみたい。


え、じゃあ自分が無いのだとしたら、
生まれ変わって別の姿になっても別に関係ないよな~
何が輪廻するんだー?とよくわかんなくなってたら、
ここの「輪廻する主体がないのだから~」とちょっと似てるかも)
こんな風に書いてあった:

これら二つの極端に近づくことなく、中道によって如来は法を説くのである。
無明によって行がある。行によって意識がある。(中略)…執着によって生存がある。生存によって老いること・死ぬこと・愁・悲・苦・憂・悩がある。

つまり、生まれ変わりとかじゃなくて、
無明 → 行 → 意識 → (略) → 苦の集まり
という、苦を生む連鎖(縁起)が「輪廻」ということかー >十二因縁 - Wikipedia

むかし倫理の授業で、
仏教の基本的な考え方に「中道」というものがあると教わったんだけど、
「我」という主体を置くと、「恒常」か「無常」かの極端しかなくなる。
そのどちらでもなく中道、それは「我」を置かないことで見つかる道、てのが面白いなあ。


結生識

この理解が難しい。Wikiでは「認識のエネルギー云々」といわれてる部分。

成る過程は、現在の生存だけにとどまりません。意識の連続性があるかぎり、次の生存でも何かに成り続けていくのです。死ぬ瞬間の識(cuti-citta)から、新たな生存の結生識(patisandhi-viññâna)が生まれてきます。あるひとつの識が、次の識を生みだすというプロセスは、絶え間なく続いていきます。ただ、それぞれの識が現れる場所が変化するのです。このとき因果の連続性が、距離によって妨げられることはありません。
うーん。



仏教その2 刹那滅


2年前のメモより。
たしか歴史上の哲学を総覧する本(書名失念)と、このサイトを読んで書いた。
自分の言葉が多いので、意味が合ってるかはわからないが、考え方は面白いからのっけとく。
世界は一瞬一瞬生滅を繰り返す

  • 仏教は「無我」を説く
  • 原始仏教「刹那に消滅する業の存続体が輪廻の主体である」
という文言から考えて、以下のような捉え方になると思われる。

  1. 世界は一瞬一瞬生滅を繰り返す。
    一瞬ごとに私は死に、そして生まれる。
    一瞬前の私と、今の私は別のものである。
    だから「私」という絶対の、固定された存在はない。=無我
  2. あるのは業、行いの起こりと結果だけ(因果)。
    あたかも自分が確固たる存在のように、途切れなく連続しているように見えるのは、この因果が繋がりを持つからだ。

    [因] 一瞬前の自分の行い → [果] 今の自分
    [因] 今の自分の行い → [果] 一瞬後の自分

    さらに因果は、先の時間へ、様々な要素へと広がりを持つ。
    何も因果を持つのは人だけではない。
    土中の水や養分で植物は成長する。
    呼吸をし、光合成で酸素を作る。種を生む。枯れて土となる。
    様々な動物は生み出された酸素を吸う。肉や実を食い成長する。
    糞をし土を肥やす。子を産む。
    それぞれの要素、水、養分、植物、酸素、動物、各々が因を起こし果を生む。
  3. こういった世界観であれば、何者も確固とした存在とはなり得ない。
    常に移り変わってゆく。
    刹那に散り、咲き続ける無限の花びらのように。
    「諸行無常」とはそのような意味ではないだろうか。

こういう世界観であれば、
その1の「結生識」も、少しはイメージしやすくなるような……気がする。

ついでにこのメモ。
関係性の哲学

確固とした存在がなく、全て因果で成り立つ世界というのは、
「関係性の哲学」とも言うことができそうだ。

私というのは、気が遠くなるほどの数々の因果によって成り立つ存在であるが、
私自身も何かにはたらきかけることで、大きな結果を残す可能性もある
(結果が自分のものかはまた別の話。なぜなら固定した自分など無いので)。

そういった発展性に目を向けると、寂々とした雰囲気だけでなく、
なかなか夢がある思想にも思える。


チベット仏教

亡くなった高僧の生まれ変わりを探す、という番組をやってて。

生まれ変わりと見られる赤ちゃんにテストを施す。
赤ちゃんが複数の道具の中から生前高僧が使ってたものを選び当てると、
生まれ変わりだ!ということで親元を離れ、以降は寺院で修行、という内容。

上の「仏教」の理解だと、輪廻転生って「我」は保存されないから、
生前の記憶とか使ってたものとか関係あるのかなって考えてたんだけど……
また違う理解の仕方なんだろうか。

ダライ・ラマ - Wikipedia
チベット仏教


六道

Wikipedia

六道輪廻図
  照光寺所蔵・製作の仏教美術【仏画師:宮坂宥明】


ピュタゴラス教団

この教団の教義によれば、肉体は魂の牢獄であって、魂は死後もさまざまな動物の肉体に輪廻するように定められている。この輪廻の輪から解脱するためには、何よりもまず魂を浄化しなければならない。そのため、信者たちには厳格な禁欲生活が強いられた。 教団に入会を認められた者は、自分の全財産を共有物として差しだし、白い亜麻の衣服を身につけた。最初の5年間は堅く口を閉じて沈黙を守らねばならず、教祖に会うことは許されなかった。毎日の生活は分刻みで決められており、朝夕には自分の行ないを深く見つめなおすことが求められた。食べてよいのは蜂蜜やパンや野菜ぐらいで、飲むのは水だけだった。肉を食べなかったのは、輪廻転生を信じていたからで、動物に生まれ変わった知人をうっかり食べてしまうことを恐れたから
図解 哲学がわかる本

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