2015-08-08

『藪の中』芥川龍之介 ★5

藪の中

あらすじ

藪の中で男の死体が発見される。
捕らえられた盗人は殺しを自供、事件が明らかにされてゆく。
ところが現場から逃げた男の妻、そして殺されて幽霊となった男、2人もまた自分が殺した(自殺した)と語り、一転、事件は混沌の中に。
真相はいまだ解かれていないという。 >Wikipedia



感想

ミステリーじゃんかーー!
食い違う3人の証言、誰の話をどう信じるかによって事件が変わっていくので、犯人がわからないらしい。「真相は藪の中」という言い方もこの作品が元ネタだとか。
すごい影響だ。

私も好奇心から真相解明に取り組んでみたが、納得いく説ができず諦めた。
「こうだとしたら……いや、こうも考えられる」と派生が次々出てくるので何も確定しない。

いくつか真相解明サイトも見たが、別の可能性を無視している、嘘かもしれない話を断定していて、やっぱり納得するまでいかなかった。
結局はたくさんの「こうかもしれない」「ああかもしれない」の中で、「どれが自分にとって信じやすいか」という話に落ち着いてしまう。
よくここまで錯綜するような物語が書けるなあと、逆に感心してしまった。


誰を信じるとどう見える

そんな中で面白かったのが、和田敦彦「『藪の中』論の方法」(PDF)
読む中でどんなバイアス(偏り)がかかるのか、話し方の変化など、すごく勉強になった。
ためしに私も3人それぞれを信じきって読んだら、人物の印象がこんな風に変化した。


A. 盗人を信じた場合
盗人:
襲った女に心奪われ、夫と正々堂々決闘するも、女に逃げられる。
彼が太刀で縄を切れば一筋にならない、という意見を見たが、一本だけ束から離れて切りやすい縛り方になってたかもしらんし、女がなびいてるとあって、ちょいと切込みを入れて「あとは自力で解け」なんて偉ぶった態度を取ったのかもしれない。

女:
「どちらか死んで」と言って夫を助けなかった事を懺悔している。
この言葉は本心かもしれないし、決闘させれば夫が勝つと思ったのかもしれない。
が、怖かったのか途中で逃げてしまい、事が終わった後戻ると(馬が残っていたのでたぶん近くに隠れてた)夫は死んでいる。
自責の念から「自分が殺した」と語る。
しかし、その割には「夫は私を蔑んだ」と同情を引き、「殺しても仕方がなかった」説に持ち込むのだった。寺なら死刑にもならんだろうし、懺悔ごっこで罪悪感から解放されたいだけかも。

夫:
「どちらか死んで」と自分を裏切った妻に激怒する男。
その怒り、恨みで事実をねじ曲げ妻を悪女に仕立てる。
自害としたのは、盗人風情に、あるいは腕に覚えがあっただけに、敗れて恥と感じたか、または悲しみに沈む自分に同情を集めようとしたのか。


B. 女を信じた場合
女:
盗人に強姦され夫からは軽蔑され、恥を見られた為に彼を殺さねばならなかった、哀れな女。

盗人:
言うことがいちいち芝居がかっている。
強姦したあげく、自分の見栄のために平気で嘘をつく。
「いやあ、俺はさっさとズラかりたかったけど、女にこう言われちゃさ~」
罪をかぶったのは、盗人の自分に向くであろう疑いを潔く肯定した上で「決闘だった」と主張し、死刑を免れるためか。
夫が死んだこと、縄が切れた位置など知っていたのは放免か誰かから聞いたか、現場に戻ったか。

夫:
強姦された妻を軽蔑。
屈辱を味わい、「殺せ」と言い放って死を選んだ。
その恨み激しく、女を悪女に仕立て上げる。
つい迸ったものかもしれないが、盗人を許すという言葉が出るほど。
あるいは罪の追求を妻に絞りたかったのかもしれない。
自害としたのは、妻に罪は着せまいと最後の思いやりが顔を出したのか(でもそれだったら誰か小刀抜いたって言わなくていいか)、それとも妻が許しを請うような機会さえ与えたくなかったか。


C. 夫を信じた場合
夫:
盗人に心変わりした妻に死を望まれ、屈辱と悲哀のうちに自害。

盗人:
「B. 盗人」の印象とだいたい一緒。
妻の言った「夫を殺して」には引いたはずだが、彼女に好意的な話をするのは、執心していた時の名残か。
または自分の創作話に大いに酔うため、事実を無視したか。

妻:
「A. 女」と近い。
ただし言葉は「夫を殺して」、完全に盗人に乗り換えている。
自己保身からか、隠し事が多すぎる。
もし小刀を抜いたのが彼女なら、自殺をしようと考えたのか、そのフリをしようとしたか、盗人に罪をなすりつけるためか、または消極的な形で夫を殺したかったのかもしれない(下記参照)。

とりあえず陳述をまるっと信じてどう感じたか、を書いてみたが、話の一部を嘘だと思う、、勘違いがあると思う、3人とも嘘をついてると思う、3人とも語ってない出来事があると思う、といったパターンではまた印象が変わるんだろう。


夫を殺したい

論の中にはほかにも、妻が罪をかぶった理由に
「夫を裏切った自分を悔やんで、自分を消してしまいたいと考える」
→「夫を消せば、彼の中の“裏切った自分”も消えるだろう」
→「創作話の中で夫を殺す」
というものがあり、興味深かった。(五、参照)

この心理、この作品にも出てくる「恥を見た人が生きていてもらっては困る」に似ている。

もうひとつ面白かった論文、渡辺義愛「『藪の中』の比較文学的考察」(PDF)には、『藪の中』に影響を与えた海外作品について論じているが、そのひとつ『ポンチュー伯の娘』(PDF)にこういう話がある。

(夫のチボー、盗賊と戦うが数に負け、縛られる。妻が犯された後……)
「奥よ、どうか私の縛めを解いてもらいたい。棘がひどく痛いから。」
地面にころがっている剣が奥方の目に入ったが、それは殺された賊のものであった。
それをつかみ、チボー殿の所に行って言った、「殿様、自由にして差し上げますことに。」
彼女は相手の胴体を突き刺そうと思った。
だが彼は切先が自分に向って迫るのを見てそれを恐れ、腕と背が捩れるように、懸命に身を逸らせた。彼女は打ち掛ったが、相手の腕を掠り、革帯を断ち切ったのだった。
彼は今や両手が自由になったのを感じ、体を這わせて縛めを解いた。
両足で立ち上って言った、「奥、もうお前には殺されまいぞ。」
彼女も言った。「いかにも殿様、それが口惜しうございます。」

『藪の中』夫の話のように、妻が殺そうとするのだ。
論文によると、このシーンも解釈がいろいろあるそうだが、大方の見方は

夫が生き残ることによって、絶えず屈辱が思い出されるであろうから、生証人を抹殺してしまおう p30

らしい。
『藪の中』の恥を見られた女の心理とはちょっと違うかなあ。
思い出すから殺すんじゃなく、恥自体を即消去したいというか。
男たちの記憶が消せれば一番いいのだろうが、ないゆえ殺さなければならない。
(もしくは自分が死ぬか)

さらには、こういった解釈もあるという。

(この民間説話の背景となる)原初的な社会では、妻はたとえ暴力で犯された場合も、穢れについて責任を問われた。この物語のみなもとにあるのは、(略)懲罰、あるいはすくなくともこうむりうる軽蔑を未然に防ごうとする気持であろう。 p31

これを読んでからだと、妻・真砂まさごの懺悔がまた違った風に感じられる。
夫に軽蔑された話が大部分を占めていたけど、なによりもそれを恐れていたせいだったのかな。
夫が軽蔑してなくても、そう思い込んだかもしれない。
または軽蔑を恐れて「どちらか死んで!」「夫を殺して!」と口走ったなら、そのせいで夫の怒りを買うことになったのだから、なんとも……皮肉な話である。



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